学校とは何か

 

かわいいわが子を
保育園から預けて
子どもを小中高・大学に行かせるため
親は働きつづけ
ゆっくり向き合えるのは週末のみ

気がつけば
わが子は
学校生活を通して
社会システムにどっぷり浸かり
恋をして大人になっている

いったい
人生とは何か

わたしたちは
何のために
子どもを生み
育てるのか
そもそも教育そのものを
学校に委ねることで
安心してはいないか

わたしたちが
最もわが子と親密にもてる「時」は
保育園へ行かせる前まで?
では
そもそも学校とは何か
ほんとうに必要なのか

わたしたちは
何のために生きるのか
その意味を
子に教えられているか

 

子を持つ親が直面する真実

 

学校はベルトコンベアー:生徒は商品として選別され社会に納品される
学校は心身魂の自滅・劣化を促進する機能を極めて合理的に果たしている

  • 歴史などほぼ全教育の捏造、隠蔽、改竄
  • 真の生き方ができない洗脳(社会システムの奴隷化)
  • 抗癌剤やワクチン接種など人殺し医療の助長
  • 農薬や食品添加物など病気をつくる食の正当化(危険な学校給食)
  • 虚偽の情報操作(マスメディアの嘘)
  • 服従・無抵抗の砦(とりで)となっている→ジェノサイドに貢献している

 

 

「学校化」された日常生活

 わたしたちはある年齢に達すると小学校に入学し、中学へ進学し、さらにその中のある者たちが高校、大学、とはしご段式に昇っていくのに不安を感じつつも当然と考えている。かつて学校に退屈させられた者でさえ、自分の子どもがある年齢に達すれば学校へやる。これは法律上の義務というより、むしろ社会的人間として認められる必要上、自ら進んでそうするのである。

 特定の年齢に到っての入学は、なぜ他の年齢であってはならないのか?また学年別になぜ同一の年齢が区切られて、上へ上へと押しだされているのか?またなぜ30〜40人の子どもたちをいっぺんに、同じ教科、同じ知識を獲得させるために、一定時間、机に座らせておくのか?疑問を感じつつもそれを受容している。子ども各人の能力が尊重されながら、同じことが教えられるように平等主義のレトリックをもって組織立てられている。

 

学校は刑務所と軍隊に類似する

 考えてみれば、こんな奇妙な制度は学校以外のどこにもとられていないし、人類史上においても全く前例のないものであり、強いて類似しているといえば、刑務所と軍隊ぐらいである。

 「子どもは学校に所属し、学校で学び、学校でのみ教えられうる」という疑いなき前提がある。学校にすべての子どもをいかせるという制度は、政治形態やイデオロギーの差を越え、先進国であれ低開発国であれ、中心部であれ周辺部であれ、豊かであれ貧しくあれ、あらゆる民族国家において同様の様式である。

 人民、国民、市民のために整った政体であるか否かは、この子どもにたいする学校制度がどれだけ整っているかに主としてかかっているといわれる。さらに子どものとき果たされなかった教育は、成人にたいする成人教育あるいは社会教育という学校教育の延長としてどこまで整備されているかによって補償される。わたしたちは、学校教育以外に教育形態をもっていないだけでなく考えられもしない時代に生存しているようである。

 学校が教育領域だけの問題でなく、わたしたちの社会生活に学校があるということ自体が問題である。つまり、「教育が学校化されているだけでなく、社会的現実それ自体も学校化されている」という点である。わたしたちの眼には不可視の世界、わたしたちの認識はもとより知覚さえも及ばない「影の世界」が、学校によってつくり出されているのだ。

 学校化された日常生活は、大学闘争の実践的体験でさえ認識できない意識をつくりあげ、またいかなる書もその体験を対象化するのに役だつものではない。客観世界だけでない、日常意識も、さらに思想や理論も、学校化されていたのである。
 「われわれはわれわれに知られていない。われわれ認識者が、すなわち、われわれ自身がわれわれに知られていない」(ニーチェ『道徳の系譜』岩波文庫、七頁)のだ。

 

学校の幻想は解体しない

 人類史において近代は、「子ども時代」を発見し、それを普遍的教育の名でもって「義務的学校化」した時代である。それは、社会そのものをマクロ的な時代でもって特色づける「学校化の時代」を創造した。

 現象的に、学校教育はいわゆる義務教育の期間だけにとどまっているように見えるが、自分の個体史のある時期が学校に鉤止めされたということによって、わたしたちは想像もつかないような特異な生活世界におしこめられている。その生活世界は一言でいえば、「産業的に制度化された生活様式」である。

 学校化された世界を自覚するのは、産業化された生活様式を考えはじめる開始点であり、産業制度のなかで最も支配的な制度となったその姿を、どこまでわたしたちは気づいているのか。そしてわたしたちの考えとどれほど違ったものが、日常世界を占めているのかを気づくうえで、手頃な対象といえる。

 しかし、この手頃さはあまりにも根源的なものをわたしたちに示すため、医療や交通の世界を駆けめぐってからでないとはっきりつかめないという問題がある。

 そこでわたしたちは、学校化をめぐる考察が「教育」に流れないように細心の注意を払うといった、まさに教育の学校化を批判する実践そのものを貫かねばならない。教育はアメーバのように癒着してくる。たとえば、「私の祖母はわたしに教育を得させたかったので、わたしを学校にはやりませんでした。」(マーガレット・ミード)という教育のために学校を拒否する意識や、学校が、教育をすべての人に平等に与えようとしながらも、その制度的な目標に反した結果をうみだしている事実を指摘しても、学校の幻想は解体しない。「教育」をもってしてもたちうちできない、それほど学校の支配は徹底している。

 ナショナリスティックな意識が民族国家の諸制度をととのえる精神的土台にあったという歴史に加えて、世界観が学校化されているため、普遍的な教育は、いかなる国であれ非常に民族主義的に形成された。

 自国の学校制度が整っているのを誇りとしない民族はいない。社会主義さえもそれを誇示する。こうした民族意識の中で、多くの人たちは世界の子どもたちの半数以上は学校にいっていないという事実にたいして、普遍的教育を実現するために少しでも多くの子どもを就学させようとし、その民族国家の発展水準を競い合う。

 世界の半数以上の子どもが学校に行っていないのみならず、小学校の六学年を終了するまでにほとんどの子どもたちがドロップアウトするという事実は、それぞれの国が子どもへの社会正義を実施し得ていないというような問題にとどまるものではない。事実の本質はもっと深刻である。

 ひとつは、先進諸国の発展が低開発の被搾取の結果であったという歴史からみて、もともと学校化の可能性が低開発諸国では抜き取られていたという理由が考えられる。そして、もう一つは、学校制度というものは本来その姿からして、万人に教育を保障するものではないという理由である。

 イバン・イリイチが、そのよき協力者であった経済学者エバレット・ライマーらとともに達した学校教育にたいする結論的な見解は、次のようなものである。

1. 義務的学校化を通じての普遍的教育は不可能である。
2. 普遍的教育の生産にたいして、それと異なる分水嶺的な諸々の装置を設けるほうが、学校化をますます強化するより、もっと可能であり、もっと容易になしうる。
3. 分割された学習の高水準にコミットしている社会では、産業的成長にたいして、批判的な個人相互関係が教育学的な諸限界を設定していくべきである。

 第一に、学校化と教育とが識別されて考えられている。第二に、学校化とは異なる別の学習の仕方が考えられる。第三に、産業的成長にたいして限界設定を教育学的にもなしうる(しかし、それは政治的な限界設定の質を有するが)、という諸点がしめされている。

 学校の制度的目標に反するケースは、子どもの就学状況や成人の就学という事実にとどまるものではない。教育予算は、国家収入や就学者の増加よりもはるかに急速に増加する。

 伝統社会の紐帯の下で生活していた人たちは学校に行くことで、伝統的な食べ物や衣服や習慣、さらに言葉まで変えざるを得なくなる。最初に学校へいった兄や姉たちよりも過酷な試練が、子どもたちを待ちかまえている。人々のためと称して、これほどまでに生活スタイルを変えたものは歴史上なかった。学校を途中で去った者は、学校を終えた者よりもなにからなにまで劣っていると感じる。「ほんの少しの学校教育はあまりに多くの不満足をもたらす」(エバレット・ライマー)。

 学校が実際にすべての子どもたちに満たされ得るのか否か、その論証はそれぞれの立場の論者たちによって賛否両論である。だが学校が完全にこの世界で満たされたとき、人類の破滅はその後であれ前であれ不可避的であろうという予兆のほうが確かである。学校は子どもに教育を与えるものでも、学ぶ機会を与えるものでもなく、それを「ある程度」成し遂げながら全く別の機能を果たしている。しかもその機能は、機能にとどまらずわたしたちの意識やエートス(ある社会や集団、民族を支配する倫理的な心的態度)までをも涸渇させている。それが「学校」と違う「学校化」の世界なのである。

 この「学校化」は、学校教育と訳されているが、それは教育が学校のなかに独占された結果的状態をもってそう理解される。しかし、わたしたちは、教育が学校化されていくその過程的状態をも含んで、「学校化」とそれを訳し、その構造を社会的−制度的に理解していく。

 学校がこれこれといった教育の事実に反することをしていると告発・攻撃するよりも、学校化を構造として理解することの方が、はるかに困難であり根源的であり、その自覚を通じてわたしたちは日常生活世界の基本構造をとらえることができる。学校の内情を知るのでなく、学校化されている自分たちの生活それ自体が「自己破壊的」であり、学校中心の産業社会・技術科学文明のエートスが、自分たちの自律性を不能化している様態を考え直すことができる。

 「学校化」は社会的諸関係総体を再考するうえで、最も根元的な範疇なのである。

 

学校が児童期を制度化する

 「もし年齢別に区分けされたしかも義務的な学習制度がなくなれば、『児童期』は生産の外へ出ていってしまうであろう(大量生産という生産形態の存在が消滅するという意味)。豊かな国々の若者は学校制度の破壊性から解放され、貧しい国々は子どもっぽさをつくりだすことを豊かな国と競い合うようなことをやめるであろう」(イリイチ)

 つまり、人間の一部分を「子ども」というカテゴリーに分割する生産様式はなくなるべきだ、といっている。それにより社会生活の仕方も、社会それ自体も変わる。つまり、児童期をなくすことは近代的生産様式の転換に大きな意味をもつ、とイリイチはいっているのである。

 「子ども時代(児童期)」の発見が近代でなされたという驚くべき歴史的事実は、もう教育学者の間では常識となっている。近代以前には子どもの遊び、子どもの衣服、子どもの物語もなく、墓にも子どもの名は記されず、絵画においても子どもは大人の等身大をそのまま小さくした、今からみると妙な姿で描かれている。日本でも「子ども」がどのように発見されてきたのかという研究が存在する。

 わたしたちはただ、そうした実証事実をもって事実への驚きにとどまるのではなく、子どもを「生産様式」としておさえるいう制度学的視座をのがさなければよい。それは、人間の一生を時間的に区切って、学校空間のなかへ時間化し、価値を形成しうる過程を創造したのである。学校制度の過程で時間を消費すれば、その消費量が価値となって形成され、市場に売り出される(=学歴としてラベリングされる)。その現象が、実は空間の時間化として示される。

 

自律的成長の責任の放棄は一種の精神的自殺

・特権を与えられた卒業生が税金を納める全公衆に馬乗りになっている。
・学校の中途退学者は学校にかわる別の途をとることができない。
・自動車の使用は法律で強制されないが、学校に通うことは全ての者に法律で義務づけられている。

 こうして、学校は「義務的であり、終わりがなく開かれ、競争的である」点で、あらゆる国々に共通し、健康ケア、商業、人間管理、政治生活に同じような影響を与え、それらがスペクトルの操縦的な側に集まるように仕向けている。諸制度が右の端へ集中化した結果、世界官僚制度は似たようなものになっている。そして、どこの国でも、官僚制度はこの操縦的制度の成長を助長する任務に焦点をあわせている。これは、やはり「官僚化」とみるより、「管理社会化」と理解したほうが誤解が少ないであろう。というのも官僚の育成でも、官僚の支配強化でもなく、制度の制度化という操縦的な内容の強化だからである。

 この管理社会は、つぎの三点に集中している。

1. 物をつくること。
2. 儀礼的なルールをつくること。
3. 執行されることが真理であるというイデオロギー、あるいは命令をつくること。そして、修正すること。それは、生産物に帰属されるべき現行の価値を正当化するものである。

消費者から自律能力をますます奪っていく・・・

参考文献:山本哲士『学校・医療・交通の神話』

 

関連記事:
母という呪縛 娘という牢獄
教育・「生」とは何か
Natural Art Education and Nutrition

 

 教育には、人間の発達という観点から見て、三つの目標がある。第一に、多くの人々が把握しているように、教育は、人を知的な市民、賢明な親、統御されたパーソナリティーにしなければならない。教育は、人が世俗の仕事において自らの役割を果たせるようにし、穏やかに、有益に、隣人たちと調和して生活できるようにしなければならない。第二に、教育は、人が自分自身のメンタル性質の様々な様相の間にある断絶を橋渡しできるようにしなければならない。第三に、低位マインドと魂の間にある断絶に橋を架けなければならない。・・・魂と低位マインドの間に橋を架けることで、魂とパーソナリティーを一体化し、さらに低位マインドと魂と高位マインドの間に橋を架けるのである。人類はいま、これを行う準備が整っており、人類史上初めてこの橋を架ける仕事を比較的大規模に進めていくことができるようになっている。

アリス・ベイリー『新しい時代の教育』

 

 イリイチの学校病院化批判は、中南米の資本侵略や略奪、教会の浸食と深い関係があるので、独立をかろうじて守った日本とはまた違ったものでしょう。近代日本は、もともとあった寺子屋の朱子学的幕政教育を基盤に、維新後の西欧社会をモデルにしてあっという間に吸収して、1920~40年代の大東亜時代にはアジア全域に、教会ではなく天皇制とともに広げたので、特殊です。近代とは、時間の管理。時計の登場や時間内生産力、工場(軍隊)的機械(武器)の操作、交通移動管理は、学校教育なしでは身につかないでしょう。物理的に遠くまで行って空間を見ようという者と、そこにいて世界の移ろいを見ようという者の差が、学校化への立ち位置。ただし、サドベリースクールやシュタイナー教育のような学校もあるし、ソローの森の生活、そしてクリシュナムルティ学校もある。すべては親の見極めと選択に委ねられている。流されて生きるか、行動するか──。

 

 

 この告発をした映画監督アーロン・ルッソ氏はこの後亡くなりました。その理由は明確です。

 

 

 「女性が働くのは当たり前」「共働きが当たり前」という風潮が出来たのは、裏でロックフェラーが手を引いていたから。以前は、女性は子どもが小さい時は「専業主婦」が当たり前だったのに、今では子どもが小さくても保育園に入れて、女性は忙しく毎日働いてる。なぜでしょうか。

 それは、子どもを早くから親元から引き離す事で、「小さい時から洗脳する」ため。それはニック・ロックフェラー本人が言っています。女性が働けば税金も取れます。全部仕組まれていたのです。ちなみに女性が忙しく働いて、育児に余裕がなくなれば、夫婦仲も悪くなります。都会に憧れるようにして親元から離れるように誘導しているのも、分断と、都会で子育てに疲弊させるためでした。

 

見上げることも見下すこともなく
すべてを、ただありのままに見る

 

The highest education is that which does not merely give us information but makes our life in harmony with all existence.
Rabindranath Tagore

 

 

絶対的自由への道
クリシュナムルティの革命的教育論

① 教育と人生の意義|Education and the Significance of Life

 

②-1 親と教師

 

②-2 親と教師

 

②-3 親と教師

 

以降、制作中

③ 学校
④ 正しい教育のあり方
⑤ 知性、権威、英知
⑥ 教育と世界平和
⑦ セックス(性)と結婚
⑧ 芸術、美、創造

自我の終焉──絶対自由への道── 同時制作

 

Radha Chihiro
テキストのコピーはできません。