危険を生きる

 

 かつては純粋な聖霊であった魂が「人間」となるとき、遺伝的・環境的要素、家族の期待、文化的・社会的なすりこみ、教育など様々な枷(かせ)によって覆われ、いわゆる「人間のメロドラマ」に巻き込まれ、あっけなく本来の使命は失われる。そして、自分の足で立ち目的を示し苦難の道を歩むよりも、親の遺産で暮らすといった安楽な人生を選ぶようになる。

 私たちが現実生活において順境にあるとき、魂は発現しにくい。逆に、逆境にあり、日常的現実、この世での生活に違和感を持ち、生きることに苦痛を感じ、苦悩するとき、それは魂が発現していることの徴候。この危険に晒される状態、絶望は、魂の道への目醒めなのだ。

 魂が、その受肉の本来の目的である「神との同一性」としての真実在への回復を目指すためには、悪いカルマを積まないよう悪行を完全に断ち切り、良いカルマ(功徳)を積み、トンレンなどの利他行に励むことが賢明。例えば窃盗について、他国ではこれくらい許される、などという甘えは堕落している。魂の道ではない。

 魂とは、さまざまな形で隠れたり現れたりしながらも、一生を通じて私たちの中に留まり続ける「神性」の中核、断片、または本質を意味する。魂がその幸福なる神との一体性を捨て去る選択をするのは、この闘争に満ち傷ついた惑星上に人間の肉体を持って現れるためである。このような決心は、素晴らしいがゆえの危険性を孕んでいる。危険に晒されることこそ、何が魂を満足させるのかを立証する唯一の方法なのだ。

 神はつねに、新しい試練を与えてくださる。突き進むのみ。

 

Radha Chihiro
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