教育・「生」とは何か

 

未成年の若者との会話

Q:誰が僕たちに「生」について教えてくれるのでしょうか?

A:クリシュナムルティ:

 誰も君たちに教えることはできないが、しかし君たちが学ぶことはできる。学ぶことと教えられることとの間には、大きな相違がある。学びは一生涯続くが、それに対して教えられることは数時間か数年間で終わる–それから後はずっと、一生涯君たちは教えられたことを反唱していくのである。教えられたことはすぐに死灰と化す。そしてそれから、生き物である生は、無駄な努力の戦場になる。君たちは、生を理解するひまやゆとりもないまま、生の中に放り込まれる。君たちが生について何かを知る前に、君たちはすでにその真只中にいて、結婚し、仕事に縛られ、社会は情け容赦なく君たちのまわりで要求を突きつけてくる。人は、最後の瞬間にではなく、幼い子供の頃から生について学ばねばならない。ほぼ成人してしまったときでは、もうほとんど手後れなのである。

 君たちは、生とは何か知っているだろうか? それは、君たちが生まれた瞬間から、死ぬ瞬間、そして多分それ以上にまで及んでいる。生は、広大で複雑な、一つの全体である。それは、何もかもが中で同時に起こっている家のようなものである。君たちは愛し、そして憎む。君たちは貪欲で、ねたみ深く、そして同時に君たちはそうであるべきではないと感じている。君たちは野心的である、そして不安や恐怖や冷酷のあとに挫折や成功が続く。そして、遅かれ早かれ、そういったすべてについての空しさの感情が生まれる。

 それから戦争の惨事と蛮行、そして恐怖政治による平和がある。戦争を支持するナショナリズム、主権がある。人生行路の果て、あるいはどこかその途中に死がある。神の探求と、その相争う信念や、組織化された宗教間のいさかいがある。仕事を見つけ、それを守るための苦闘がある。結婚、子供、病気、そして社会と国家の支配がある。生はこの全部であり、そしてそれ以上である。で、君たちはこの混乱の中に放り込まれるのだ。一般には、君たちは零落して、みじめで、途方にくれる。そして、たとえ君たちが山の天辺に登ることによって生き残るとしても、君たちはなお混乱の一部である。果てしない苦闘や悲嘆と、時折訪れるわずかな喜び–これが、われわれのいわゆる生である。誰がこのすべてについて教えてくれるだろうか? あるいはむしろ、いかにして君たちはそれについて学んだらよいのだろうか?

 誰もが有名になることを望み、事業、宗教あるいは国家の名において自分自身のために努力し、そのようにして誰もが互いに敵同士であるような、野心や羨望や利欲心に基づいた社会を築き上げ、そして若者はそのような分裂した社会に順応し、その堕落した枠組みに適合するように「教育」される。

 若者たちの能力は、社会のパターン内で生活できるように開発される。なぜなら、両親、教育者、政府はすべて、若者の能率や金銭的安定に関心があるからだ。政府は若者たちが国家を運営する有能な官僚、経済を維持する善良な産業労働者、そして「敵」を殺せる兵士になってくれることを望んでいる。あるいは「善き市民」になることを欲している。と言うことは、体よく野心的で、欲張りで、自分や家族の安泰だけを願いつつ生き長らえていくことを意味している。

 もし親がわが子を愛していれば、彼が全面的に自由に育つように願い、単なる社会の歯車よりもはるかに偉大なものになるようにさせるべく努めるはずである。が、一般に親は息子や娘に安定した仕事を見つけさせ、一定の収入を確保させようとするあまり、絵をかくといった子供の気紛れを許さず、ひたすら社会に適合し、世間体を守り、安定することを願う。

 教師と親は、政府と社会一般に支持されて、若者が世間のしきたりに従い、野心や羨望を人生の自然なならわしとして受け入れるべく訓練されるように監視する。彼らは新しい生き方には関心がない。戦争の世界、敵意に満ちた競争の世界をもたらしたのは古い世代であり、そして新しい世代もせっせとその例に倣っている。

 では、正しく教育されるにはどうしたらいいのか? まず最初に、政府も教師も両親も、若者を正しく教育する気がないという、単純な事実をはっきり見ること。なぜなら、もし彼らがそう心がけていたら、世界は今とはまったく異なっていたであろうし、戦争などなかっただろうから。だから、もし正しく教育されたいと思うなら、若者は自分自身でそれに着手しなければならない。そうすれば、成人した時、自分の子供たちが正しく教育されるように、気をつけるようになるだろうから。

 君たちには、数学や文学等々を教えてくれる教師はいる。しかし、教育というものは、知識の単なる蓄積よりも何かもっとはるかに深く、かつ広いものなのだ。教育とは、行為が自己中心的にならないように精神を陶冶することである。それは、安泰になるために精神が築き上げる壁–そしてそこから恐怖が、そのすべての複雑さとともに生じるのだが–を打破すべく、一生涯学ぶことである。正しく教育されるためには、君たちは怠けていないで一生懸命学ばねばならない。遊戯に上達するようにしなさい。しかし他人を負かそうとせず、楽しく遊ぶようにしなさい。適切な食物を摂り、健康を維持するようにしなさい。精神を機敏にさせ、そしてヒンドゥー教徒、共産主義者、あるいはキリスト教徒としてではなく、一人の人間として、生の諸問題に取り組めるようにしなさい。正しく教育されるためには、君たちは自分自身を理解しなければならない。学ぶことをやめるとき、生は醜悪で、悲しいものになる。優しさと愛なしには、君たちは正しく教育されることはない。

 

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① 教育と人生の意義|Education and the Significance of Life

 

②-1 親と教師

 

②-2 親と教師

 

②-3 親と教師

 

以降、制作中

③ 学校
④ 正しい教育のあり方
⑤ 知性、権威、英知
⑥ 教育と世界平和
⑦ セックス(性)と結婚
⑧ 芸術、美、創造

 

Radha Chihiro
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