自己の不在からの目醒め

 

 私は、この世界にどんな群衆も望んでいない。宗教の名のもとに集まろうが、国家の名のもとに集まろうが、民族の名のもとに集まろうが、そんなことは関係ない。こうした群衆は醜い。群衆は、世界中で最悪の犯罪を犯してきた。なぜなら、群衆には、気づきがないからだ。群衆は、集団的な無意識だ。気づきのある意識が、人を個にする。──風の中で踊る一本の松にする。太陽の光を浴びて栄光と美のなかにある一つの山の頂にする。

 一匹のライオンと何キロも谷間に響き渡るその凄まじく美しい咆哮(ホウコウ/ケモノなどが吠えたける)にする。群衆はいつでも羊だ。そして、過去のすべての努力は、それぞれの個人を、車輪の歯車に変えること、死んだ群衆の死んだ部品に変えることだった。気づきがなく無意識的であるほど、そして集団に強く支配されるほど、彼は危険ではなくなっていく。実際、彼はほとんど無害になってしまう。彼は、自分の奴隷性を打ち破ることさえできない。

 反対に、彼は自分の奴隷性を美化し始める。宗教、国家、民族、人種──彼はこうしたものの奴隷なのだが、これらを美化し始める。個としての彼は、どんな群衆にも属していない。すべての子供は個として生まれる。だが、個として死ぬ大人はほとんどいない。

 あなたが生まれたときと同じように、無垢のまま、統合された状態のまま、個としてあるがまま、死を迎えられるように手助けをするのが、私の仕事だ。誕生と死の間で、あなたのダンスは、星に達するほどの意識的な孤高を保たなければならない。独りで、妥協なく、反逆的精神を持て。反逆的精神を持たない限り、あなたはどんな精神も持てない。他の種類の精神というのは不可能なのだ。

Osho『反逆のスピリット』

 

 世界中で奇跡が起こっている。かつて一度も生きたことのない者たちが死んでいく──そんなことが起こり得るだろうか!?しかしそれは毎日起こっている。多くの者が、死ぬ間際にそのことに気づいてこう言う。「なんということだ、初めて気づいた。私はこれまで生きてこなかった。人生を無駄にしてしまった!」何のために生きる?愛するため、楽しむため、忘我の喜びのため。そうでなければ、そもそもなぜ生きる?

 生きることを尊重し崇拝しなさい。生きることより尊いものはない。生きることより神聖なものはない。

 存在そのものは意味を持たない。意味が欠けているということではなく、意味と存在とは単に関係がないのだ。存在は、何かを達成しようとしているのではなく、どこかを目指しているのでもない。シンプルにそれはただ在る。

 意味というのは目的志向だ。何かの目標、何かの達成を狙っている。意味にまつわる問題は、思考によってもたらされたものだ。あなたの内で起こるあらゆる疑問の原因は、思考にある。思考は、あるがままの物事の中で落ち着いて安らぐことができない。それはもともとそういう性質なのだ。

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 探求には危険が伴う。それは未知の世界へ踏み入ることだ。そこで何が起こるか分からない。すべての慣れ親しんだもの、快適なものと別れなければならない。未知の世界では向こう岸に、何かがあるのかどうかさえ定かではない。そもそも向こう岸などないのかもしれない。

Osho

 

自己実現とは

 普通「自己実現」とは、自己に秘められた可能性が現実のものとして開花すること、自己の素質や能力を開発してゆくことをいう。人々は自身が持っている可能性や能力が完全に開花することを願い、いわゆる自己実現の願望を持つ。そして、自己実現を求めて、さまざまな努力をする。計画や理想を実現するのと同じように、いま現実には存在していない「自己」をいつの日か実現し、現実に存在する状態へと至らせる──自己実現とは、本当にそういうことなのでしょうか?

 自己は「存在」の自然な状態。自己は私たち自身の生命の最も自然な状態。では、一体どうして自己を実現しなくてはならないという問題が生じるのか。

 私たちが眼鏡をかけているとき、眼鏡を通してものが見える。私たちは眼鏡を通して探し始める。「眼鏡はどこにあるのだろう?」──もし、眼鏡がそこにないのであれば、私たちは何も見えず、探すこともできない。実際には眼鏡はそこにあるのですが、ただその「感覚」が失われている。

 それと同じように、自己はそこにある。他のものが認識されているという事実、他のものが経験されているという事実から、自己がそこにあるということは明白だ。ただ自己の「感覚」が失われている。自己の感覚が、自己以外のものの感覚を認識している中に失われている。ただそれだけのこと。自己が存在するという感覚が失われているのだ(自己の不在)。

 そのために自己を実現しなくてはならないという問題が生じてくる。自己の探求は、すでにそこにある自己の感覚を獲得すること、それだけのことなのに。自己は、明らかに私たちの「存在」の最も精妙な面。なぜなら、自己はあらゆるものにとって生命の源であるから。自我の全経験にとって、理智にとって、五感にとって、呼吸にとって、身体にとって、自己は生命の源。自己の光によって、あらゆるものが認識される。

 この世界におけるすべての経験は自己を経験している。それを顕現の異なる段階において自己の様々な相を経験しているだけ。超越的、絶対的な純粋意識である自己が、その顕現の様々な相において生きている。ただ、顕現した相において、それは直接には経験されない。そして、非顕現の純粋意識が見失われると、私たちは自己の感覚を失ったかのように思う。ただそれだけのこと。

 自己はそれ自身をそれ自身に明らかにする。これを無智の世界における自己実現では、愛着する対象を追い求め嫌悪する対象を忌避するという形の願望によって翻弄され続ける。すなわち望むものを得ては喜び、得られなかったり失ったりしては悲しむという人生に囚われ続ける。

 欲望を性とし、天界に行くことを目的とする彼ら(愚者たち)は、行為の結果として転生をもたらし、享楽と権力をめざす多種多様な儀式についての美辞麗句を並べる(BG2-43)

 世俗的な願望に没頭すると、人は生死の循環の内に留まり続けることになる。感覚器官による喜びを経験しても決して十分な満足を得ることはできないので、さらなる喜びを求めて益々深みにはまってゆくことになり、そうして束縛から逃れられなくなる。そこに永続的な満足が得られる可能性はなく、それゆえ生死の循環(転生)が継続する。表面的な甘味を味わって満足するのではなく、不生不死の甘露(アムリタ)の味わいを熱望し続けることこそが重要。

 「自己実現」を求める人は、決して実現することができない自己を実現しようとし、不毛な努力を続ける。しかし、そのような努力こそが自己の悟りを妨げる。自己を探し求めるがゆえに、自己が失われたかのような錯覚が生じる。もし、「自己実現」という言葉を聞いた私たちが、自己は実現すべきものだと誤解し、自分もいつかは自己を実現したいと願い、「自己実現」をめざして努力をし続けるならば、私たちは、みずからを危険な罠に陥れることになるのかもしれない。

 あなたという自己(真我/Self)は、探さなくても今この瞬間そこに在る。あなたは今この瞬間、完全なる愛の存在。悟りは外からやって来る何かではない。それは、自己の中での、自己による、自己の啓示(enlightenment)。この純粋意識の状態こそが、自己を実現する、自己を悟る、ということではないか。

 

目醒めとは、目醒めを求める者の消滅です。
Awakening is the disappearance of the one who is searching for the awakening.

 

Radha Chihiro
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