人類はどこへ向かうのか

 

 個人の問題は世界の問題である。もし個人が不幸で、不満で、満たされていなければ、彼のまわりの世界は悲しみと不満と無知に沈む。もし個人が彼の目標を見出さなければ、世界は目標を見出さないであろう。個人と世界とを分かつことはできない。もし個人の問題が理解によって解決されれば、それによって世界の問題は解決されうる。他の人に理解を与えることができるためには、あなた方自身がまず理解しなければならない。

 重要なのはあなた方自身であって、世界を変えるためにあなた方が何をするかでも、どのようにするかでもない。もしあなた方が心優しくて親切なら、もしあなた方の表情があなた方の思考・感情を示していれば、そしてもしあなた方が本当に嬉々としていれば、その時には、なぜあなた方がこの混乱した世界でそのようにしていられるのかを見るために、あらゆる人があなた方のところにやって来るであろう。

 個人対社会の関係はどうあるべきなのか? 明らかに社会が個人のために存在するのであって、その逆ではない。社会は、人間の結実のためにある。それは、個人に自由を与えることによって、彼が最高度の英知を目覚めさせる機会を持つことができるようにするためにあるのだ。この英知は、技術または知識の単なる養成ではない。英知は自由において見出されるべきものなのだ。

 われわれは個人であると同時に社会的存在である。平和があるためには、人間と市民との間の正しい関係を理解しなければならない。もちろん国家はわれわれが完全に市民であることを望んでいる。しかしそれは為政者側の愚かしさである。われわれ自身は、人間を市民に譲渡することを欲している。なぜなら、市民であることは、人間であることよりも容易だからである。善き市民であることは、社会の枠内で能率良く機能することである。能率と順応は市民を強固にし、無情にするので、彼はこれらを要求される。そしてそうなれば、彼は市民のために人間を犠牲にすることができるわけだ。善き市民は必ずしも善き人間ではない。しかし善き人間は必ず──特定の社会や国のものではない──正しい市民である。彼は何よりも先ず善き人間だから、彼の行為は反社会的ではなく、彼は他の人間に対立したりはしないだろう。彼は、他の善き人間たちと協力し合って生きることだろう。彼は権威や権力を追い求めたりはしないだろう。彼は冷酷になることなく、能率的に働くことができるだろう。市民は人間を犠牲にしようと企てる。しかし至高の英知を捜し出しつつある人間は、当然ながら市民の愚行を避けるだろう。それゆえ国家は善き人間、英知の持ち主に反対するだろう。しかしかくのごとき人間は、あらゆる政府や国から自由なのである。

 世界はあなたと別個のものだろうか? 社会の構造はあなたや私のような人々によって築き上げられてきたのではないだろうか? その構造に根源的な変化を引き起こすためには、あなたや私が根本的に自分自身を変容させねばならないのではあるまいか? もしもそれがわれわれから始まらなければ、いかにして諸々の価値の深い革命がありうるだろうか? 現在の危機において助けになるには、人は新しいイデオロギー、新しい経済計画を捜し出さねばならないのだろうか? それとも人は自分自身の内部の葛藤や混乱──その投影がすなわち世界だ──を理解し始めねばならないのだろうか? 新しいイデオロギーは人と人の間の和合をもたらしうるだろうか? 信念は人と人とを反目させないだろうか? われわれはイデオロギー的な障壁──というのは、あらゆる障壁はイデオロギー的なものだから──を片づけ、われわれの問題を結論や公式の偏重によらずに、直接に、かつ偏見なしに検討してみなければならないのではあるまいか? われわれはけっしてわれわれの問題と直接に関係しないで、常に何らかの信念や公式を介在させる。われわれは、問題と直接に関係する時にのみ、それらを解決できるのだ。人と人とを戦わせるのはわれわれの問題ではなく、それらについてのわれわれの観念なのである。問題はわれわれを結びつける。しかし観念はわれわれを分離させる。

 混乱と不幸は単に西洋だけのものではない。なぜなら世界中の人間が同じ苦境に陥っているからだ。個人の問題はまた世界の問題でもあり、両者は二つの離れた、別個の過程ではない。われわれの関心は人間の問題にある。その人間が東洋にいようと西洋にいようと──洋の東西は勝手な、地理的区別なのだ──人間の全意識は神、死、正しい、幸福な生活に、子供たちと彼らの教育に、戦争と平和に関心がある。このすべてを理解せずには、人間の治療はありえない。

 人間にとっての根本問題は、いかにして戦争をとめるかでも、どの神がどの神より優れているかでも、どの政治・経済体制のほうが良いかでも、どの政党に投票したらいいか(どの政党も不正にまみれている)でもない。アメリカ、インド、ソ連などどこに住んでいようと、人間にとっての根本問題は「片隅」から自由になることである。そしてその片隅とは「われわれ自身」のことであり、われわれ自身のちっぽけな精神・心のことなのだ。

 これらの言葉からおわかりのように、クリシュナムルティにとってはまず何よりも「個人」が重要なのですが、ただしそれは利己的な存在としての個人ではなく、自己変革を通じて世界の平和に寄与できる存在としての個人です。様々な形で表わされる暴力性、自分を条件づけ、制約している様々なものから本当に自由な、自立した個人、諸々の虚偽の上に成り立っている社会にとっては危険な存在でもある、そういう個人を生み出すことができるだろうか? それが彼の大きなテーマだったのです。なぜなら、依存的な、混乱した、弱い人間がいくら結集して組織を作っても、そうした弱点を組織の中に持ち込み、結局は社会の混乱に寄与してしまうだけだからです。彼は日記の中で次のように書いています。

 新しい意識、まったく新しい倫理が、現在の文化、社会構造を根本的に変革するのに必要とされる。これは自明なことだが、左翼も右翼も、革命論者もそれを軽視しているらしい。どんな教義、信条、イデオロギーであろうと、それは古い意識の一部にすぎない。そんなものは、右、左、中心と分裂・断片化する思考が捏造したものにすぎない。こうした動きには、かならず右か左の流血がある。あるいは全体主義への道をたどる。これは現在、私たちのまわりで起こっていることだ。社会的、経済的、倫理的な変革の必要性はだれもが認めるが、その反応は古い意識からくる。その立役者は思考である。人類が陥っている困難や、混乱、窮状は、古い意識の領域にある。それを根こそぎ変えてしまわない限り、人間の為すことは、政治、経済、宗教、そのすべてが互いに滅ぼし合い、地球を破壊するだけだろう。正気なら、まったくもって明らかなことだ。

 私たちが核戦争の危機と生態系破壊という二重の根源的危機を避けて生き残りたいのなら、何よりも必要なのは、戦争を必要悪とするイデオロギーに対して平和のイデオロギーをもって、経済成長のイデオロギーに対して環境保護のイデオロギーをもって、結局はまたしても「戦う」ことではなく、われわれ個々人の根源的変容、いわば「魂の革命」である。そうクリシュナムルティは言っているのです。

 革命、反革命、不革命。革命者は反革命者に殺される。反革命者は革命者に殺される。不革命者は、革命者と見なされて反革命者に殺されるか、反革命者と見なされて革命者に殺されるか、あるいは、何でもないものとされて、革命者もしくは反革命者に殺される。しかし、真の革命は内部で起こらなければならない。私たち一人ひとりがエゴイズムに由来する諸々の問題を検証し、深くかつ、たゆみない認識の光のもとで、他者との間に正しい関係を打ち立てなければならない。大切なことは質であって量ではない。一個の人間の愛の革命は自らその光を外部に投げかけるでしょう。

 

 

 1929年に星の教団を解散した後、1933年にクリシュナムルティは神智学協会に招かれ、そこで一連の講話と質疑応答をおこないました。当時の世界は、第一次世界大戦の悪夢も覚めやらぬうちにヒットラーが台頭してきて着々と全体主義への道をたどりつつあり、一方では共産主義が勢いを得つつあるといった緊迫した情勢の中にありました。「平和の使徒」として、彼は、平和を妨げ、戦争の直接の原因となっている「ナショナリズム」が疫病のように全世界に蔓延しており、それがほかならぬ神智学協会をも冒しているのを見ました。

 この協会は前述のように「人類の普遍的大連帯の中核」となることを標榜していました。しかし、現実には、世界各国の会員の多くは社会的には上流に属し、したがってそれぞれの祖国の利害と自分の利害が密接に結びついており、それゆえ「協会員」としての自分と「国民」としての自分との間に分裂がありました。これは普段は問題にしないですみましたが、現実の危機に際して表面化せざるをえませんでした。1914年、第一次世界大戦が勃発した時、指導者の一人リードビーターはその頑固な大英帝国主義者としての一面をむき出しにしました。興味深いことに、もう一人の指導者ベサント夫人の方はインド自治獲得のための闘いに熱中しており、政治的にはリードビーターと対立関係にあったのです。

 やがてリードビーターは、戦争で殺されることは偉大なる祝福であるとまで言うようになります。「新人類」の身体の中で神智学の一族へとすみやかに再生するために、西洋人から古い自我を抜き取ってしまうことは、オカルト的階層組織(ヒエラルキー)構想の助けになるからだというのです。神智学の理想実現のためには、若者が戦死した方がむしろ望ましいというわけです。

 この考えをもう少し押し進めれば、いつか人類の普遍的大連帯、友愛を実現するためには、いま少々の犠牲が払われてもさしつかえないということになります。「理想」「大義」のためには現在の人間を犠牲にしてはばからないというのは、ナショナリズムと密接にからんだ狂気の沙汰です。

 質問:もし明日戦争が勃発し、ただちに徴兵法が布かれ、武器を取るようあなたを強いたら、一九一四年に神智学協会の指導者たちがしたように、あなたは軍隊に加わって「武器には武器を」と叫びますか? それとも、戦争を無視しますか?

 クリシュナムルティ:神智学協会の指導者たちが1914年に何をしたかは気にしないでおきましょう。ナショナリズムがあるところ、そこには必然的に戦争があります。いくつかの主権政府があるところ、そこには必然的に戦争があるのです。個人的には、私はいかなる種類の戦争活動にも加わらないでしょう。なぜなら私はナショナリストではなく、階級意識にも所有欲にも駆られていないからです。私は、たんに傷病兵を治療し、再び傷つかせるために彼らを戦場に送り込むために存在しているような組織には加わらないでしょう。むしろ私は、戦争の脅威が迫る前に、これらのことについて理解するようにするでしょう。

 さて、少なくともさしあたりは、実際の戦争はありません。戦争が来れば、煽動的なプロパガンダがおこなわれ、仮想の敵に対してありもしないことが言われ、愛国心や憎悪が煽られる。国民は祖国への献身に熱狂し、そして「神はわが側にあり、罪悪は敵にある」と叫ぶ。そして幾世紀もの間ずっと、彼らはまさにそれと同じ言葉を叫んできたのです。敵味方共に、神の名において戦い、どちらの側でも、こともあろうに司祭が軍備を祝福するのです。ナショナリズム、彼ら自身の階級的または個人的安泰という病気に取りつかれているので、彼らは爆撃機をも祝福するでしょう。

 ですから、私たちが平和──「平和」というのは、敵対的武装のたんに一時的な中断を述べる奇妙な言葉ですが──な時、ともかくお互いに戦場で殺しあっていない時、私たちは何が戦争の原因かを理解し、それらを免れることができるはずです。そして、もしあなた方が、自分の理解、自由において、その自由が含意しているすべてと共に明晰なら、その瞬間が来る時、正しく行動することでしょう、それがどんな行動であれ。あるいは、戦争マニアに従うことを拒否することで、銃殺されるかもしれませんが。

 そのように、問題は戦争が来たら自分は何をするかではなく、戦争を防ぐためにいま自分が何をしているかなのです。常日頃私の否定的態度を非難しているあなた方は、まさに戦争の原因である当のものを一掃するために何をしておられますか? 私は戦争の真因について話しているのです。各々の国が軍備を増強してれば必然的に高まる直接の戦争の原因だけではなく。愛国心があるかぎり、階級差別、選民意識、所有欲があるかぎり、必然的に戦争が起こるのです。それを防ぐことはできません。もしあなた方が、戦争の問題にいま直面すべき問題として本当に直面していれば、決然たる行動、明確かつ積極的な行動に出ることでしょう。そしてあなた方のそうした行動によって、戦争の唯一の予防薬、英知、を目覚ますのを助けるでしょう。しかし、そうするためには、あなた方は「わが神、わが国、わが家族、わが家」という病気を自分自身から払い落とさなければならないのです。

 しかし、戦争をとめるためにはまず私たち自身が変わらなければならないという彼の指摘は、容易には受け入れられませんでした。例えば彼はある質疑応答集会で、「差し迫った戦争や原子爆弾の脅威の前では、単に個々人の変容に傾注するというのは無駄なのではないでしょうか?」という質問を受けています。これに対して彼は、次の答えに明快に応えています。

 これは非常に複雑な問題であり、したがって慎重に調べてみなければなりません。われわれは何が戦争の原因か知っています。それらはいたって明白であり、学童ですらそれらを言うことができるでしょう──すなわち、貪欲、ナショナリズム、権勢欲、地理的・国家的区別、経済的衝突、主権国家の存在、愛国心、右のであれ左のであれ、一方的に他に押し付けられるものとしてのイデオロギー、等々です。これらの戦争の原因はあなたや私によって生み出されるのです。戦争は、われわれの日常生活の壮大で血生臭い現れなのではないでしょうか? われわれは自分自身をある特定の集団──国家、宗教、民族的集団──と同一化させます。なぜならそれはわれわれに力の意識を与えるからです。そして力は必然的に破局をもたらすのです。

 戦争の責任はあなたや私にあるのです。ヒットラーやスターリン等々のスーパーリーダーにではなく。戦争の責任は資本家や頭の狂った指導者たちにあると言うのは便利な言い逃れです。心底では各人が豊かになり、権勢を持つことを望んでいます。それらが戦争の原因なのであり、その責任は私やあなたにあるのです。戦争はわれわれの日常生活の結果であり、ただずっと壮大で、血生臭いだけだというのは、ごく明白だと思われます。われわれが国境、境界、関税障壁を持つ社会を作り上げるのは、自分自身の所有物を貯え、札束をうず高く積み上げようとしているからです。そしてある国の利害が他の国のそれと衝突する時、それは必然的に戦争に行き着くのです──これは一個の事実です。

 われわれは戦争に直面しており、それゆえその責任は誰にあるのかを見出さなければならないのではないでしょうか? 正気な人なら責任は自分にあることを見抜き、そして言うでしょう。「そう、私がこの戦争を引き起こしているのであり、それゆえ私は国家主義的であることをやめ、愛国心に駆られないようにし、国籍にこだわらないようにし、ヒンドゥー、イスラムあるいはキリスト教徒であることをやめ、ただの人間であるようにしよう。」そのためにはとてつもなく明晰な思考と知覚が必要ですが、われわれのほとんどは事実に直面することを望みません。もしあなたが個人的に戦争に反対しているなら、──どうしたらいいでしょう? 戦争に反対している正気な人は何をすべきでしょう? まず彼は自分の精神から、貪欲など、戦争の諸原因を洗い落とさなければならないのではないでしょうか? 戦争の責任はあなたにあるのですから、あなたが戦争の原因から自分を自由にすることが大切なのです。それはとりわけ、あなたが愛国的であることをやめなければならないということです。そうするつもりがあるでしょうか? 明らかにありません。なぜならあなたはヒンドゥー、バラモン、等々と呼ばれること、レッテルを貼られることを好むからです。つまり、あなたはレッテルを崇拝し、正気に、理性的に生きることを二の次にするのです。こうしてあなたは、好むと好まざるとにかかわらず、破滅への道を歩むのです。

 もし人が戦争の原因を免れたければ、彼はどうしたらいいのでしょう? どうやって戦争をとめたらいいのでしょう? 差し迫った戦争をとめることはできるでしょうか? 貪欲のはずみ、勢い、ナショナリズムの力は、すでにあらゆる人がつけてしまっています。それはとめられるでしょうか? 明らかにとめられません。戦争は、ロシア人、アメリカ人、われわれの全員が直ちに自分を変容させ、ナショナリズムを放棄しよう、ロシア人、アメリカ人、ドイツ人、イギリス人であること、あるいはヒンドゥー教徒、イスラム教徒であることをやめ、ただの人間であるようにしようと言うとき、レッテルのないただの人間同士として、一緒に幸福に暮らすようにしようと言うとき初めてとめられるでしょう。もし戦争の原因がわれわれの精神・心から根絶されれば、戦争はなくなるでしょう。

 ところが、戦争の勢いはなお続いています。例えば、もし家が燃えていたら、どうしたらいいでしょう? われわれは家ができるだけ火災を免れるようにするため、家事の原因を調べ、適切な煉瓦、耐火材料、改良された家屋構造、等々を見つけて、新しく家を建てるでしょう。言い換えれば、われわれは燃えている家は放置するということです。同様に、文明が崩壊し、自滅に向かっている時は、それについてもはや自分には何もできないと気づいた正気な人々は、不燃性の材料で新しい家を建てようとするでしょう。それこそは唯一の行動の仕方、唯一の理性的方法なのです──単に古い家を改修したり、燃えている家にパッチワークを施すことではなく。

 クリシュナムルティは「もしも人間が機械的な存在であり、自動機械であれば、未来を予見し、完全なユートピアの計画を立てることはできる。そのときは、周到に未来社会の計画を練って、それに向かって働くことができるだろう。だが人間は、ある特定のパターンに従って作り上げられる機械ではない」と、いわゆる改革や革命に異議を唱えているのです。しかも現在と未来の間には無数の予見できない事態があり、それらが私たちに無数の影響を及ぼしうる。にもかかわらず改革者たちは未来を輝かしいイメージで飾りたて、美しい言葉で描き、人々を眩惑し、現在を犠牲にして、ありもしない未来へと導こうとする。しかし、そもそもなんの権利があって他人に自分の理想を押し付けることができるのか? 理想は、その唱道者があれこれの本から引っぱり出したものに自分の混乱した願望、野心、恐怖といったものを混ぜてこね上げたものにすぎないかもしれないではないか。しかも暴力的な手段で平和な世界の実現をめざしているが、そんなことは不可能だ。そう、クリシュナムルティは言うのです。もし本当に今とは違う社会──病的な羨望、野心、出世欲、競争、貪欲といった心理的要素に基づいていない社会──を実現したいのなら、建設のための「材料」を吟味し、堅固な材料、腐敗しない材料を選ばなければならないと言うのです。

 では、戦争に反対の人々は平和のために結集し、反戦組織を作るべきなのでしょうか? ここで注意すべきことは、参加者の善意にもかかわらず、組織は力の場となり、そこには力が集まってくるということです。しかるに、戦争の主因は力、権力、権勢です。まさに反戦のために結束していく過程で、私たちは新たな力の場を作り上げてしまうのです。そこに組織的運動の難しさがあるのです。

 結局、重要なのは組織ではなく、人間同士の間の相互理解、愛情、思いやりであり、それに基づいた助け合いです。だから問題は常に私たち一人ひとりの精神・心のあり方へと戻ってくるのです。世界の問題と個人の問題は直結しているのであり、たとえ世界に何十億の人間がいようと、私たちはその数の大きさに眩惑されてはならないのです。結局、私たち一人ひとりが戦争の原因である病的な物欲、支配欲、権力志向、あるいは他を犠牲にして、あるいは無視して自分だけが安定しようとする自己中心的衝動から自由にならなければ、戦争はなくならないのです。

 戦争をとめ、世界に平和をもたらすためには、個々人──あなたと私──に革命が起こらなければなりません。この内的革命を伴わない経済的革命は無意味です。なぜなら、飢餓は、われわれの心理状態──貪欲、羨望、悪意、所有欲──によって生み出された不均衡な経済状態の結果だからです。悲しみ、飢え、戦争を終わらせるためには、心理的革命が起こらなければなりません。しかし、われわれのごくわずかしかそのことに直面しようとしていません。平和について討論し、そのための立法を計画し、新しい連盟、国連等々を組織するかもしれません。しかし、われわれは平和を勝ち取ることはないでしょう。なぜなら、われわれは自分の地位、権威、金銭、財産、愚かしい人生を放棄しないでしょうから。他の人に頼ることはまったくの無駄です。他の誰もわれわれに平和をもたらすことできないのです。いかなる指導者も、政府も、軍隊も、国も、われわれに平和をもたらすことはないのです。平和をもたらすのは内面的変容であり、それが外面的行動となって現われるでしょう。内面的変容は孤立ではなく、外面的行為から引き下がることではありません。それどころか、正しい思考がある時にのみ正しい行為がありうるのであり、そして正しい自己認識がないかぎり正しい思考はないのです。あなた自身を知ることなしには、平和はありえないのです。

 外なる戦争を終わらせるためには、あなたはまず内なる戦争を終わらせなければならないのです。世界の不幸と戦争は、あなたが危険を察知し、自分の責任を認め、それを他の誰かに任せないときにのみとめられるでしょう。もしあなたが苦しみに気づき、即座の行動が急務であることを認識し、それを延期しないとき、あなたは自己変容を遂げるでしょう。そして、あなた自身が平和なとき、隣人と平和に暮らすときにのみ、平和が訪れるでしょう。彼は戦争について、さらに次のように述べています。

 戦争はわれわれの内面的葛藤の最終的表現である。実業界、政界、宗教界で、あるいは様々なグル同士、セクト間、ドグマ間で絶えず戦争が続いている。

 われわれは第三次世界大戦を回避することはできないかもしれないが、しかし敵意を生み、愛を妨げる暴力やその他の原因から精神と心を自由にすることはできる。すると、この暗い世界に、心の清らかな人々が現れ、そして彼らから多分真の(平和な)文化の種子が芽生えるであろう。

 第二次大戦後私たちはしきりに「反戦平和」を唱えるようになりましたが、ふだんの日常生活において私たちは内面的に本当に平和に生きているでしょうか? これに関連して、鋭利な文芸評論家として知られていた正宗白鳥の書いた「内村鑑三」という評伝の一部を紹介させていただきます。白鳥によると、第二次大戦後、鑑三が日露戦争・第二次大戦の頃、熱烈に徹底的に戦争反対を唱導していたことが思い出され、反戦論者として再評価され、改めて敬意を寄せられるようになったというのです。そもそも、「日清日露戦役の時には、戦争反対説などは何処にも現われていなかった」と白鳥は回想しています。鑑三でさえ、日清戦争の時には、それを「正義の戦」であるとして、英文で書いて、世界に向かって宣伝したりしていたのです。キリスト信者が戦争反対を唱えるのは当然なはずなのに、その当然のことを敢行する者が滅多になかったというわけです。第二次大戦中の宗教者たちの戦争協力についてはいろいろ議論され批判されてきたようですが、実はそれ以前から問題があったのです。日露戦争に反対して非戦論を唱えたのは、幸徳秋水などの社会主義者の他には、キリスト教徒の内村鑑三ぐらいだったようです。

 日露戦争の頃、白鳥は読売新聞の記者として社会の各方面に取材しに出かけ、「戦争景気をよく見聞していたのだが、戦争を呪詛していた日本人は何処にもなかったと云ってよかった。大抵は讃美者であった」のです。さらに「文学者美術家教育家などに、戦争行為に対して懐疑の念を抱いていた者は絶無のようであった。そして戦争反対を唱える者がたまにあるとすると、それは変人奇人と思われるに過ぎなかった」というのです。鑑三もまた変人奇人の類いと見なされていたのでしょう。

 

 近松秋江の家の近所に山県五十雄という人が住んでいたそうだが、内村が時々その家を訪問して、大きな声で戦争を罵倒するのを秋江は聞いていたそうだ。「内村さんもあれだから困るよ」、と秋江は笑って私に語った。彼も私と一緒に内村の文学講演を二三度、青年会館に聴きに行ったことがあって、内村に対して平生多少の敬意を持っていたのであった。

 日露戦争中のある夏、私は、新聞の文学関係記事の担任者として、当時小川町に住んでいた佐々木信綱氏に招かれて晩餐を饗せられたことがあったが、その時の相客は老文学者依田学海と上田敏とであった。雑話のうちにトルストイの徹底的の非戦説が出ると、翁は「口先で話が極らなければ、腕ずくで勝負をつけるより外為方がないじゃないか」と、口角泡を飛ばして論じた。「トルストイは先生より年下ですよ」と上田が云うと、「そうか、年下のくせに生意気だ。学海先生のお説を聞きに来い」とふざけた口を利いて一座を笑わせた。トルストイの無抵抗主義なんかは、真面目に人に取合われない時代であった。内村のように馬鹿正直に、真剣に無抵抗主義を唱え、戦争廃止を唱えるのは、むしろ奇異の振舞なのであった(現代仮名遣いに改め)。

 

 日露戦争に勝利し、第一次大戦では対岸の火事の乗じて儲けた後、第二次大戦へと至る過程では「鬼畜米英」に勝るとも劣らぬほどの強欲ぶりを発揮して領土を拡大し、資源を確保し、大儲けをしようと思ったのが、あにはからんや徹底的に苦汁をなめてから、ようやく反戦論者が多数出現することになったのです。私たちは──支配者・権力者だけでなく、被支配者・服従者も──実はとてつもなく残忍で暴力的なのではないでしょうか? ルネ・フェレは、現代文明の実態について次のように述べています。

 

 個人は、今や社会的エンジン内の歯車にすぎない。彼の生ははななだしく空虚で、かつ不毛である。彼の内面的貧困は、彼に所有や気晴らしを渇望させる。さらに、所有すらもが気晴らしにされる。なぜなら、いったん事物がその正当な用途から切り離されるや、それは娯楽の種にしかすぎなくなるからである。刺激と回避とが普遍的になり、人間の思考はもっぱら娯楽と逃避に向けられている。事物への絶えずつのりゆく要求は、もうすでに行き過ぎている産業的発展をなお一層加速化させており、人間は、自分自身の蓄積物の重圧で押しつぶされているにもかかわらず、もっと多くを要求しているありさまである。人々は、原材料や市場、領土や政治的権力を求めて、核による全滅の戦慄すべき予兆に脅かされる限界点まで、陰険に戦い合うのである。人間は、財産と快楽の過剰の中に、あまりにもすぐに、そして名状しがたい恐怖に終わるかもしれないような、生の強烈さを追い求めるのである。

 あらゆる個人が、他のあらゆるものを犠牲にして、肉体的、精神的により一層膨張し、蓄積することを欲する。彼は、彼の利己的な衝動の輪の中に、数名の彼の家族や友人を含めるかもしれないが、しかし世界のその他の人々は彼の合法的犠牲者である。なぜなら、競走に勝ち、弱い者を押えつけることは、世間公認の、ごくあたり前な行動だからである。個人は、社会という肉体の癌細胞になったのである。そして社会という肉体は、個人の盲目的で無法な衝動のゆえに腐り、ずたずたに引き裂かれるのである。社会的肉体のすべての細胞が病んでおり、各々が他を犠牲にしている時には、なおのことそうである。集合的有機体は、異常に肥大化し、そしてその機能のとてつもない複雑さで身動きがとれなくなって、その重みの下で崩れてしまうのである。

 

 

Radha Chihiro
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