エッセンス(本質)とパーソナリティ(人格)

 

 通常の人生の目的のためには、パーソナリティの形成で十分ですが、人間のさらなる発達をめざす人にとっては、成功した政治家、科学者、肉屋、パン屋等々であること、すなわち「良き家長」として十分にパーソナリティを発達させた時が新たな成長段階の出発点とみなされます。これは、トランスパーソナル心理学でいう「健全な自己」と対比されます。

 ※トランスパーソナルでは、健全な自我の確立(=自己実現)が、自我を越えた成長(=自己超越)のための必要条件であると説く。自我を包み込むかたちで超えて(成長して)いく。

 つまり、パーソナリティ(人格)を犠牲にしてのエッセンス(本質)の発達が始まるのです。世間的名声や評判、豪邸、宝石、グルメといった「豊かさ」にもかからわず、自分が「空しい」と感じ始めた時、その人は第3の発達段階に近づき、自分の真の部分であるエッセンスが成長でき、新約聖書ルカの福音書の放蕩息子**のように空しく感じるかわりに、意味の感情に満たされ始める、そういう状態に達したサインです。

 ところが、外面的豊かさにもかかわらず「空しい」と感じている人々が、内面的豊かさへと目を転じる時に陥りがちな、思わぬ落とし穴があります。つまり、その課題がパーソナリティを覆っている「偽りの部分(プライド、虚栄心、様々な自己イメージなど、エゴを膨らませるすべての要素なら成る部分)」によって取り組まれると、なんらかの手段によって獲得された内面的豊かさ(と思われているもの)自体が、かえってさらに偽りのパーソナリティの殻を厚くしてしまいかねないということです。

 「私はこれこれのスピリチュアルな修行をした」という思いが、「スピリチュアルなプライド」を追加してしまう危険性を孕んでいるということです。いわゆる求道者の多く、あるいは怪しげなグルやその弟子たちが漂わせているなんとも言えない不快な雰囲気は、この「偽りのパーソナリティ」から放たれるものなのです。知識人とか文化人とか言われている人々も同様、多くの場合借り物の知識でできた「偽りのパーソナリティ」が異常に発達しているのです。

 「エゴ」を滅する方法を求めていては、
他なる「エゴ」の滅却過程で、
あなたは別のエゴを作り上げてしまう。

クリシュナムルティ

 

失われていたが見いだされた|Lost and Found

**放蕩息子のたとえ話(ほうとうむすこのたとえばなし/Parable of the Prodigal Son)は新約聖書ルカの福音書(15:11 – 32)に登場する、イエス・キリストが語った神のあわれみ深さに関するたとえ話である。このたとえ話は、福音書に登場するたとえ話のうちで最もよく知られているもののひとつである。(以下、Wikipediaより)

内容

 ある人に二人の息子がいた。弟の方が親が健在なうちに、財産の分け前を請求した。そして、父は要求通りに与えた。そして、生前分与を受けた息子は遠い国に旅立ち、そこで放蕩に身を持ちくずして財産を使い果した。大飢饉が起きて、その放蕩息子はユダヤ人が汚れているとしている豚の世話の仕事をして生計を立てる。豚のえささえも食べたいと思うくらいに飢えに苦しんだ。

 父のところには食物のあり余っている雇人が大ぜいいるのに、わたしはここで飢えて死のうとしている。彼は我に帰った。帰るべきところは父のところだと思い立ち帰途に着く。彼は父に向かって言おうと心に決めていた。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」と。ところが、父は帰ってきた息子を見ると、走りよってだきよせる。息子の悔い改めに先行して父の赦しがあった。

 父親は、帰ってきた息子に一番良い服を着せ、足に履物を履かせ、盛大な祝宴を開いた。それを見た兄は父親に不満をぶつけ、放蕩のかぎりを尽くして財産を無駄にした弟を軽蔑する。しかし、父親は兄をたしなめて言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。」(口語訳新約聖書 ルカ 15:11-32)

解説

 この物語の主題は、神に逆らった罪人を迎え入れる神のあわれみ深さである。登場する「父親」は神またはキリストを、「弟」(放蕩息子)は神に背を向けた罪びとを、「兄」は律法に忠実な人を指しているといわれる。

 放蕩息子であった弟が故郷に帰還し、父親に祝宴を開いて受け入れられるという物語を通して、神の深い憐れみの奥義が表現されている。

 一方、弟のために開かれた盛大な祝宴を喜ぶことができず、父親に不満をぶつける兄の姿は、律法に忠実な人が陥りやすいファリサイ派(分離した者)の精神、傲慢さを表していると読むこともできる。この読み方によれば、兄をたしなめる父親のことばはファリサイ派のパン種(偽善・慢心)に注意しなさいという、この兄のようないわゆる「善人」への警告を含んでいるとも読み取れる。

 マタイによる福音書(20章1-16節)でイエスは「ぶどう園で働く労働者のたとえ」を語っている。一番はじめに呼ばれた労働者は夜明けから働いた。そしてある人は午前9時から、ある人は12時から、ある人は午後3時から、またある人は午後5時からという具合にぶどう園で働いてもらい、最後に主人は最後に呼ばれた者から順番に同じ金額の報酬を与える。このことに対し最初の労働者が主人に向かって不平を言った。放蕩息子の兄の不平はこの最初の労働者の不平と同じものと言えるのであろう。

 また同時にこのたとえ話は、神の楽園から追い出されていった創世記のアダムとエバの子孫である人類に対して、神の楽園への帰還を呼びかけるという、壮大な救済の物語を象徴的に重ね合わせている。

 

実存的神経症

 サイコセラピストたちは、通常の神経症患者──通常の発達課題のすべてを習得しなかったために幸福ではなかった人々──を治療することが常であった。彼らは「正常」になり、正常な人々のように適応し、人生を楽しめるようになりたかったのである。それから、新種の患者──社会的な基準では成功しているのだが、しかしなお満足していない人々──が出現し始めた。典型的な不満はこんなふうかもしれない。「私は自分が働いている会社の副社長をしており、いつか社長になるかもしれません。お金はかなり稼いでいます。地元で尊敬されています。幸せな結婚生活を送っており、可愛い子どもたちがいます。家族で、年に二回、素晴らしい長期休暇を取ります。けれども私の人生は虚しい。何かこれ以上のものはないのでしょうか?」

 セラピストたちは、そのような患者たちが、どのように暮らしたらいいかよりはむしろ人生の究極的な意味についての疑問と格闘していることを示すために、彼らのことを「実存的神経症患者」と呼んだ。しかし、この用語は、いかにセラピストたち自身が依然としてわれわれの文化の思い違いにとらわれているかを示した。通常の生活は充分ではないと感じることがなぜ「神経症的」だったのだろうか?今、われわれは、成功した不満家が不幸だったのは、彼らの精神的・霊的生活が空虚だったからだ、と認識できる。合意的トランスは、実は、生まれつき目覚める能力を持っている存在にとっては充分なものではないのだ。「実存的神経症」は、実際は、潜在的成長の健全な徴候なのである。

 確かに、副社長という、「文明」の推進に先頭を切って邁進していた人が、突然「人生の意味」という「文化的」問いを発するというのは、個人史においては一大危機かもしれないが、しかしそれは「より高い意識」に向かっての第一歩かもしれないのである。(パーソナリティを犠牲にしてのエッセンスの発達のはじまり)

 この「変態的」と「超常態的」意識は、「常態」の見地からすればどちらも共に「病的」であるが、にもかかわらず両者の方向はまったく逆である。前者が堕落、退化に向かうのに反し、後者は人間精神のより広範な生産面に展開し、「より高い真理」に通ずる。「異常と非凡とを混同することによってのみ、ロンブロゾーがやったように天才を狂人や罪人と同じ部類に入れ、そして粗大な神経組織と限られた精神とを持つ平均的常態の類型を理想として認容することができるのである。」ここから浮上してくるきわめて重要なポイントは、いわゆる「常態」がかならずしも「正常」で、唯一絶対の規準ではないということである。(トランスパーソナル心理学者/チャールズ・タート『覚醒のメカニズム』)

 このように、私たちが「個」「合理」「意識」のレベルに立って、自分を「正常」とみなし、その段階に満足しているかぎり、より高い発達への展望を見失ってしまいます。また、俗にいうスピリチュアル難民が陥る「偽りのパーソナリティ」にも氣をつけたいものです。クリシュナムルティ曰く、真理に至るいかなる道、いかなる方法、手段もありません。一切の追求がやんだとき、それは目の前にあります。追求は、決して新たなるものを見出すことはできない。終わることのうちにのみ、新たなるものがある。新たなるものは無尽蔵であります。愛のみが、つねに再生していく。

 

Radha Chihiro
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