Be compassion of “all that is”
ヴィーガニズムの倫理は思いやりを本質とする。ヴィーガニズムの実践とは、消費者たる自分の特権が変化を起こせるという認識のもと、自分なりの非暴力の輪を広げ、それにしたがって行動することを指す。禅僧の平和活動家かつヴィーガンのティック・ナット・ハンは、「思いやりは動詞だ」と言った。
思うに、人間や他の動物の権利を無視する、つまり、尊厳や自由を否定するなどしてかれらを虐げることは、私たち皆が解放を欲しているという事実を無視することにほかならない。苦しみは一つで、それが諸々の種、人種、性、階級、宗教を、きわめて具体的な形で結び付ける。私たちは独立して存在しているのではない。一つの抑圧をぬぐい去りつつ他の抑圧の隆盛をゆるすことはできない。それは端的にいって、不可能である。
ところが時として、人権活動家は動物の権利論を認めても、自分にはやることが沢山あるので人間以外の動物擁護にまで時間を割けないと口にする。が、動物を助けるのに余分な時間を割く必要はない。ヴィーガンになって、植物性の食べものを食べ、動物不使用の衣服を着て、動物実験を経た製品を避け、誰であれ他者搾取するビジネスを応援しないようにすれば、変化を起こす主体になれる。
思いやりを育てる
ラテン語の語源にさかのぼると、思いやり(compassion)は元来、「ともに苦しむ」ことを意味する。これは感情移入にすぐれた人なら分かることで、私たちは実際、他者の身になってその痛みを強く感じる。私は道端に横たわる動物を見ると、その死や残された者たちの喪失感を思って胸が痛まずにはいられない。私はそれが自分だけの心理でないことを知っている。研究が示すところでは、ヴィーガンや倫理的なベジタリアンは、人間や他の動物の苦しみを前にした時、雑食者以上の共感を抱く。
思いやりはその実践者が苦しみを和らげたいと願う相手(人間であれ人間以外であれ)にとっても恵みに違いないが、実践者本人にとっても恵みとなる。それは私たちに生きがいを与える。しかも研究が示すところによれば、他者への慈善は私たちの幸福と健康を高め、人生の苦しみに対する恐れを減らすという。体内の老化防止ホルモンDHEAは倍に増え、ストレスホルモンのコルチゾールは33%も減る。霊的修養(座禅やヨーガなど)をする人なら、思いやりがそうした生の側面を向上させることを実感しているだろう。
つまり、思いやりのある人は大きな心理的安寧を得るとともに、健康で幸福で充実した、しかも長い生を送ると考えられる。多くの人にとって、他者に与えることは貰うことに勝らずとも劣らない喜びとなる。そして当然ながら、思いやりの輪を広げれば、親切行為に伴う数々の恩恵はぐんと増す。
残酷性ゼロ|Cruelty Free
苦しみ、差別、抑圧のない世界に生きることを望むなら、今すぐ文化的な変革を始めるのがよい。「残酷性ゼロ (Cruelty Free)」という言葉には、単に動物成分入りの商品を避ける以上の意味が含まれる。消費者としての選択をさらに意識して、果物、野菜、豆類、穀類の播種・栽培・収獲に携わる労働者たちや、パーム林となった土地に暮らす先住民の人々、カカオ生産の労働を強いられる子どもたちにまで考えをおよぼすよう努められるだろうか。
もしも人類が繁栄を望み、未来世代に正義と平和の遺産を継がせたいと願うなら、私たちの目前にある課題は、より良心的な種へと進化し、自分たちの恐れと習慣が人や他の動物や環境におよぼす影響をはっきり自覚することに相違ない。
現代人の大半に共通する持続不可能で不健全な生活は、私たちをただ不快で悲惨な状況に陥れる。私たちは一つになり、栄える新しい世界を皆の手で築けるような、ヴィーガニズムの生態系を創造できるはずだ。純真無垢になっているのではない。少なくとも、種や人種、肌の色、性や性的指向といった社会の構築物に囚われず、生きとし生けるものすべての「生」を考慮することは始められるのではないか。知るべきことを知った私たちは今や、自分だけでなく、自分とともにこの星に住まう者たちをも益する選択へと向かえる。
つまりはそれが、ヴィーガニズムの倫理を生きるということにほかならない。
(参考文献:マーク・ホーソーン(2019)『ビーガンという生き方』, 緑風出版.)