クリシュナムルティが反逆者に変容した背景

 

 ジッドゥー・クリシュナムルティは、1895年、南インドのマドラス(現在はチェンナイ)近辺の小さな丘の町に生まれました。ジッドゥー家はバラモン階級で、曾祖父も祖父も有名な学者でした。8番目の子供として生まれた彼は、ヒンドゥー教の伝統に従って、クリシュナ神(第8子とされている)にちなんで、クリシュナムルティと命名されました。父のナリアニアは、マドラス大学を卒業後、英国行政下で徴税局の官吏をしていました。彼はタシルダール(地代徴集官)で、地方長官の地位にまで上っており、比較的恵まれた生活をしていました。が、1907年に52歳で退官後は、年金だけで大勢の子供(次々に死んでいきましたが)を養わねばならず、楽ではなくなりました。そこで、神智学協会員であった彼は、会長のベサント夫人に奉職を願い出ました。条件として彼は子供も一緒に協会の構内に移り住むことを求めたため、ベサント会長は彼の願いを受付ないでいたのですが、運よくアシスタントの職が欠員となり、就職することができました。これが、クリシュナムルティと神智学協会との運命的な結びつきの始まりとなったのです。

 近代インドの宗教運動を網羅的にまとめた『現代インドの宗教運動』(ファルカール著、1929年)によれば、神智学とは「最初ブラヴァツキー夫人によって教示され、後に夫人ならびにオルコット大佐によって1875年にニューヨークで創設された協会に盛り込まれた、宗教、科学および実生活の一体系であり、近年ベサント夫人とリードビーター氏によって一層の進展を見せたもの」です。神智学は、さまざまな宗教の創始者や哲学の教師たちによって教えられてきた究極的真理を包摂したものであり、チベットあたりの山岳地帯に住んでいるといわれる数人のマスター(大師)またはマハトマ(大聖人)によって新たにブラヴァツキー夫人に開示された、とされています。

 そして神智学協会は次の目的のために結成されました。(1)人種、信条、性、カーストまたは皮膚の色の区別を超えた、人類の普遍的大連帯の中核となること。(2)比較宗教、哲学および科学研究の推進・奨励。(3)自然に関する未解明の諸法即則および人間の潜在諸能力の調査・研究。

 クリシュナムルティとの関係でこの協会が問題になる時期は、ベサント夫人とリードビーターによって指導されていた1907年から33年にかけてです。そして神智学によれば、ロード・マイトレーヤ、「世界教師」は、これまで二度、濁世に新しい教えを授けるために化身し、その最初の方は紀元前四世紀のシュリー・クリシュナであり、然る後にイエスとしてそのお姿を現わしたのです。さらにこの世界教師は間もなく、再度人間の形を借りて下界にそのお姿を現わすはずである、とされていました。そしてその降臨に際して、その「乗り物」(器)として選ばれたのがクリシュナムルティだったのです。1909年、彼が14歳の時のことでした。そしてその世界教師が現われた時に、彼を迎え入れ、その指導を仰ぐために作られたのが「星の教団」で、1911年、クリシュナムルティを長とし、ベサント夫人とリードビーターを保護者として発足しました。

 クリシュナムルティ少年は、この教団の指導者として働くための素養を身につけるべく、弟のニティヤとともにヨーロッパに留学することになり、以後10年余りヨーロッパで過ごすことになりました。重要なことは、この時期にクリシュナムルティが鋭い観察力と強烈な懐疑・反逆・自立精神を養ったことです。後に、インドからカリフォルニアへとさらに旅した彼は、それまでの自分の歩みをまとめ、1928年に『探求』と題する講話の中で披露しています。その中で、彼は次のように述べています。

 少年の頃から、多くの若者がそうであり、そうあるべきであるように、私は反抗してきた。何ものも私を満足させなかった。私は傾聴し、観察し、単なる空言を超えた何か──を求めた。私は自分自身で目標を発見し、確立したかった。私は誰にも頼ろうとは思わなかった。

 初めてヨーロッパに行った時、私は、裕福で、教養豊かで、社会的に権威ある地位を持つ人々の間で暮らしたが、しかし彼らは私を満足させなかった。私はまた、神智学徒とそのあらゆる専門用語、理論、集会、そして人生についての彼らの説明にも反抗した。集会に行くと、講師たちは同じ観念や考えを繰り返すだけで、それは私を満足させることも、また幸福にすることもなかった。私はますます集会から遠ざかるようになり、神智学の観念を繰り返すだけの人々にはますます会わなくなった。私はあらゆることに疑義を呈した。自分自身で見出したかったからである。私は通りを歩きながら、人々の顔を観察し──劇場にも行った。そして人々が自分の不幸を忘れようとしていかに娯楽を求めるか、浅薄な興奮で心を麻痺させることによって問題を解決しつつあると思っているかを見た。また私は、政治的、社会的、宗教的な権力を持ちながら、にもかかわらず人生において唯一不可欠なものである幸福を得ていない人々にも会った。

 私は労働者の集会や共産主義者の集会にも参加し、彼らの指導者の発言に耳を傾けた。彼らは総じて何かに抗議していた。私は興味をおぼえたが、しかし彼らは私を満足させなかった。ある類型から別のそれへと観察を重ねることによって、私は様々な経験を蓄えた。あらゆる人の中に、不幸と不満の火山が潜んでいた。

 彼はさらに若者たちの娯楽、放縦を見守り、また貧民街で人助けをしたがっている人々を見ましたが、「しかし、彼ら自身が無力であった」と述べています。このようにして彼は自分自身の目で人生を観察しつつ、ヨーロッパからインドへと旅し、さらにカリフォルニアへと渡りました。そこで彼は、病気の弟の看病をしながら、真理を探求し続けました。やがて、看病のかいもなく、彼の補佐役を務めてくれるはずだった弟が死んでしまいます。幼くして母親に死なれ、やがて父親から引き離され、さらに1925年、30歳の時、最愛の弟を失って、彼は大いなる悲しみを味わいました。それから少し経ってから、彼は次のように自分の心境を打ち明けています。

 われわれ二人の兄弟のこの世での楽しい夢は終わった。一緒におり、お互いにしていることを見つめ合い、一緒に旅し、話し合い、冗談を言い合い、そして清々しい、愉快な人生のためになるすべての細々したことについての夢は終わったのだ。──二人にとって沈黙は特別な喜びであった。その時二人はお互いの考えや気持ちを容易に理解できたからである。たまに苛立つことはもとよりあったが、それはほんの数分も経てば消え去り、二人はまた仲良く流行歌を口ずさんだり、詠唱に時を忘れたりしたものである。われわれは二人とも同じ雲、同じ木そして同じ音楽が好きだった。気質は違っていたが、人生を愛する点では同じだった。われわれはなぜか難なくお互いに理解し合うことができた。──幸福な生活だった。が、私はこれから死ぬまでこの世で弟に会うことはないのだ。

 古い夢は過ぎ去り、新しい夢が芽生えつつある。固い大地を突き抜けて一本の草花が顔を出すように、新たな視界が開け、新たな意識が生まれつつある。

 ──苦悩から生まれた新たな力が血管を脈打ち、過去の苦しみから新たな共感と理解が生まれつつある。他の人々の苦しみを軽くし、たとえ苦しむとしても彼らがそれに気高く耐え、あまりにも多くの傷跡を残さずにそれを抜け出してほしいと、より一層願うようになった。私は泣いたが、他の人々が泣くことを望まない。しかしもしも彼らが泣くなら、それが何を意味するか今の私にはわかる。

 肉体的には引き裂かれはしたが、しかしわれわれはけっして別々ではない。われわれは一つになったのである。クリシュナムルティとして、私はこれまで以上の熱情と、信念、そしてこれまで以上の共感と愛を具有するに至った。なぜなら、私の中には今やニティヤナンダの身体、存在も溶け込んだからである。──私は依然として泣くことを知っているが、しかしそれは人間的なことである。今や私は、これまで以上の確信をもって、外部のいかなる出来事によっても壊されえない真実なる生の美、真の幸福、束の間の出来事によってけっして弱められることのない偉大なる力、そして永遠にして不壊であり、何ものにも屈することなき大いなる愛があることをはっきりと感ずる。

 こうして苦悩を乗り越えた彼は、「生の源泉」から溢れ出る清水を飲むことを欲して、なおも探求を続けました。そして自分と目標との間に横たわるあらゆる障害物の打破に着手し、自分が蓄積してきた不要物を放棄し、自分を束縛しているあらゆるものから自分自身を解放させることによって、ついに真理を見出し、「本然の生」を実現し、「解放の海」に入ったのです。こうして彼は、星の教団の団員たちに次のように訴えかけています。

 真理に至るために、いかなる組織、いかなる宗教にも加わる必要はない。なぜならそれらは束縛し、制約し、諸君を特定の崇拝対象や信念へと拘束するからである。もし諸君が自由を切望するのなら、私がしたように、あらゆる種類の権威と闘わなければならない。……諸君の精神あるいは心をいかなるもの、いかなる人によっても束縛させてはならない。もし束縛させれば、諸君は別の宗教、別の寺院を作り上げてしまうだろう。私はあらゆる伝統の束縛、あらゆる崇拝の偏狭、心を腐敗させるあらゆる追従に対して闘っている。もし諸君が自由──を見出したければ、諸君はまず不満の炎を燃やし、反抗し、周囲のあらゆるものに内面で反抗することから始めなければならない──

 諸君はしばしば「私は指導者に従う」という言い方をする。が、誰がその指導者なのだろう? 私はけっして指導者ではありたくない。けっして権威を持とうとは思わない。私は、諸君が諸君自身の指導者になることを望む。  生は単純にして荘厳であり、麗しく、神聖なものだ。が、諸君は夜明けや静かな夜のあらゆる美しさを、自分たちが崇拝できるように狭い円の中に閉じ込めようとする。夕暮れに浜辺に降りてみると、さわやかなそよ風が吹き、草の葉という葉がそよいでいる。砂粒が舞い、木々の梢が揺れ、そして波と波がぶつかりあっている。が、諸君はそれらすべての美を狭い寺院の中に閉じ込めようと願うのだ。気高く生きるには、いかなる信念も不要である。にもかかわらず、諸君は言う。「私は神々を崇拝しなければならない。寺院に参詣しなければならない。これに従い、それをしなければならない。」永劫の「ねばならない」である! そのような生き方は少しも生とは言えないのだ。

 私のまわりに寺院を建立することだけはやめてほしい。私はその中に閉じ込められることはないだろう。私は諸君にとって、さわやかなそよ風のような友でありたいと思う。私は諸君を諸々の制約から自由にし、かくして諸君自身の内部の創造性、独自性を鼓舞したいのだ。

 この『探求』が重要なのは、その中で述べられていることの多くが、その後のクリシュナムルティの生き方のほぼ一貫した支柱になっているからです。すなわち、指導者、権威に依存せず、自分自身の偏らない目でものごとを観察し、それによって気づき、理解したことを、その「ありのままに」伝えるという姿勢、真理と自分との間にいかなる仲介もはさませないこと、真理の発見にとって不要なすべてのもの(形骸化した伝統、組織、権威、形式、儀式、寺院、導師、等々)を一掃し、懐疑を傾けて虚偽を否定すること、等々。

 当時の神智学協会や星の教団のメンバーは、指導者のベサント夫人、リードビーターの指導に従い、経典(創始者のブラヴァツキーが書いた大著『シークレット・ドクトリン』など)を読み、学ぶことによって「弟子道」を歩んでいたのです。これに対してクリシュナムルティは、真理をめざして山頂へと登るには「軽装」でなければならない、したがってそうした経典も脇に置かねばならないと訴えたのですが、これは容易には聞き入れられませんでした。なぜなら、それは彼らのそれまでの生き方を根底から覆すことを意味したからです。

 そして彼の言うことをほとんど誰も聞き入れないことがわかった時、彼は1929年、34歳の時「星の教団」を解散したのです。その「解散宣言」の中で、彼はおおよそ次のように述べています。真理は、そこに至るいかなる道も持たない土地である。真理は組織化されえない。それゆえ、ある特定の道をたどるように人々を指導し、あるいは強制するようないかなる組織も結成されるべきではない。真理探求の目的で組織を創立するなら、組織は松葉杖となり、束縛となって、人を不具にし、真理探求に必要な個々人の独自性の成長をかえって阻害してしまう。真理到達のための唯一の方法があるとすれば、それは仲介者を通すことなく、真理それ自体の使徒となることである。霊的成長にはいかなる儀式も不要である。真理はわれわれ一人ひとりの中にある。「生」そのものを目標とし、ガイド、大師、そして神とすることの方が、仲介者や導師(グル)の助けを借りるよりもはるかに簡単なことだ。真理が与えるのは、希望ではなくて「理解」である。理解する人間でありさえすれば、彼の進化段階のいかんを問わず、解放は可能である。

 実は、この解散宣言の冒頭でクリシュナムルティは、スーフィーの小話を出しています。

 ある人が道を歩いていると、その後を二人の見知らぬ男がついて行きました。しばらく歩いて行くと、彼は何かとてもきらきらと輝くものを見つけ、それを拾い上げ、じっと見つめてからポケットに入れました。後の二人はその様子を観察し、そのうちの一人が相手に言いました。「これはひどくやっかいなことになりましたな。」すると相手──実は悪魔──はこう答えました。「なるほど、彼が拾ったのは真理だ。しかし私は、彼がそれを組織化するのを手助けするつもりだ。」

 ルネ・フェレというフランス人の研究家は、『クリシュナムルティ──人と教え』の中で、星の教団解散直前のクリシュナムルティについて次のように述べています。

 ”歴史上、少なからぬ人間が、クリシュナムルティが現在直面している選択に迫られた──彼のメッセージを純粋なままに保ち、信奉者の大部分を失うか、それとも彼の教えを引き下げて、凡俗のレベルに適合させ、それによって彼の信者の数を増やすかという。躊躇なく、彼は困難な道を選び、そしてすばらしい宣言でもって星の教団を解散してしまうのである。”

 神智学協会も星の教団も、主に良家の子女をメンバーとし、解散当時、星の教団は世界四十ヵ国に四万人余りのメンバーを持つ国際的宗教団体に育っており、しかもきわめて裕福な団体でした。しかしクリシュナムルティは、富と権力の強い誘惑に少しもたじろがなかっただけでなく、救世主として享受すべき一切のものを放棄して、より広い世界へと出ていったのです。

 彼は、自分はグルではないと言います。「私は皆さんに何か大事なことを指摘しているつもりですが、しかしそれを受け入れるかどうかは皆さんの自由です。なぜなら、指摘されたものを取り上げて、それを自分のために役立てるかどうかは、皆さん一人ひとりの仕事だからです。」そして彼は言います。「個々の人間にこそ希望があるのです。社会にも、諸々のシステムにも、組織化された宗教にも希望はありません。希望は、皆さんの中、そして私の中にあるのです。

 彼はまた、生とは関係だと言います。妻、子供、隣人との。そして動物、植物、大地、海、川との。そして関係は、その中に自分自身を見出すための鏡だと。ですから日常生活の中で自分を観察し、自分の言動を見守り、それにありのままに気づくことが重要なのです。いわば日常生活を道場にして、観察・洞察・理解力を磨く必要があるというのです。するといやおうなしに、自分の内部の混乱、悲嘆、貪欲、野心、競争心、葛藤などが白日の下にさらけ出されるでしょう。しかし、いやでもそれらから目をそむけないこと。それがまさにクリシュナムルティが言う意味での「修行」だと言えるでしょう。

Radha Chihiro
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