クリシュナムルティのいわば「否定的アプローチ」は、彼の言う瞑想についても適用できます。つまり、彼は、「瞑想とは何か」と問うかわりに、「何が瞑想ではないか」と問います。これは、本質的なものに迫るためにそのまわりにこびりついている非本質的なものをまず剥ぎ取るという、一種の整理術でもあるのです。
彼のアプローチが瞑想に対してどう適用されるかをわかりやすく述べるため、かつて精神世界雑誌『フィリ』がまとめた「ニューエイジ用語辞典」に出ていた「クリシュナムルティ」の項の一部をここで取り上げさせていただきます。
1929年、「真理は道なき道である」と追随者たちの前で語り、以降、いかなる導師・教義も真理へ導くものではないということを主張し、世界中で講演活動を行う。1986年死去。約束された「救世主」の座を蹴っ飛ばしたため、清廉潔白な印象があり、ニューエイジ界にもファンが多い。でも、すべての(悟りのための)技法を否定したクリシュナムルティとニューエイジって相性悪い気がするんですけど。
これに対して(もしこの解説を読んだら)彼はおそらくこんなふうに言うでしょう。「なるほど、おっしゃるとおり私は方法とか技法といったものを否定しました。が、いわゆる座禅、ヨーガ、TM(超越瞑想)、ホロトロピックセラピー等々を実践なさることによって、あなた方は現代社会の心理構造を構成している病的な所有欲、支配・権勢欲、あるいは嫉妬・羨望、野心、飽くことなき消費的快楽の追求、体験願望、そしてなによりも陰湿な競争や家庭内暴力など様々な形で現われる暴力性から自由になりましたか? もし少しでも自由になられたのなら、おおいに結構です。私の言うことなど無視してどうかお続けなさい。しかし、どう見てもあなた方はあまり楽しそうではないですし、心の中に歓喜が沸き上がっているようにも、あるいは仲良く平和に暮らしていらっしゃるようにも思えないのですが、いかがですか?」
クリシュナムルティにとっての瞑想とは、実は上述したような現代社会の心理構造を突き抜け、その外に出ることなのです。なぜなら、その中には真の平和はないからです。彼は言います。
瞑想は世俗からの逃避ではない。それは孤立的で自己閉鎖的な活動ではなく、世界とそのあり方を理解することである。社会は衣食住以外には与えるところ少なく、それが与える快楽は大きな悲嘆を伴うのが常である。
瞑想はそのような世界を豁然として離れ去ることであり、人は全的にアウトサイダーでなければならない。そのときこの世は意味を帯び、天と地はその本来の美を不断に開示する。そのとき愛は快楽の影を宿さない。そしてこの瞑想こそは、緊張や矛盾、葛藤、自己満足の追求、力への渇望などから生まれたものではない、全ての行為の源泉である。(『クリシュナムルティの瞑想録』平河出版)
クリシュナムルティは、現代社会は心理的に「腐った卵」あるいは「泥舟」であり、もしその中で窒息したくなければ、あるいは沈没していく船とともに奈落の底に沈みたくなければ、一刻も早くそこから抜け出すしかない、と言います。ですから、まさにこの現代社会の現状をどう見なすかが、クリシュナムルティとの決定的な分かれ目になるのです。「確かに環境・資源問題や政治家の腐敗、教育の荒廃といったものを見るかぎり、おっしゃるように泥舟の様相を呈してはいるが、しかしあちらこちらを修繕すればまだなんとかなる」と言う人は、改革者として泥舟の沈没を必死に食い止めようとするでしょう。そしてクリシュナムルティの言うことは極端すぎると言って、彼から離れていくでしょう。
ですが、「確かにあなたのおっしゃることには一理ある。沈みつつある泥舟から飛び出す以外、人類の未来はないかもしれない」と思う人は、クリシュナムルティとともに歩み始めることでしょう。そしてその人はまず、泥舟の乗客である当の自分自身をありのままに見つめてみるでしょう。しかもそれを山奥の庵の中でではなく、騒然たる都会の中のオフィスでの人間同士の「関係を鏡にする」ことによっておこなうことが必要であることに気づくでしょう。なぜなら、そこでこそまさに自分たちの本性がなまなましくぶつかりあっているからです。これこそはクリシュナムルティの言う瞑想の唯一の行法なのであり、それを実践していくと、実は泥舟と自分自身とが同じ材料でできているという戦慄すべき事実に直面するでしょう。
ここで注意すべきことは、私たちが生きていくにつれて、とりわけ人生後半にかけて、私たちの内面にはいつの間にか「魂の沼地」とでも言うべきものが出来上がり、そこに無数の「無気味な住人」が住みつくようになるということです。これらの住人は「内なる被抑圧者」と呼ぶこともできるかもしれません。私たちが生きていく中で、無視され、心の隅に追いやられ、出て来ることができずにいる私たちの心の部分です。ユング派の分析家ジェイムズ・ホリスは、その著『ミドル・パッセージ──生きる意味の再発見』の中で、次のように述べています。なお、「ミドル・パッセージ」とは、中年期における苦悩・惨めさから意味ある人生に向かう途中の通り道のこと──いわゆるミッドライフ・クライシス(中年の危機)からの目覚めです。
成人初期の思い込みがくつがえされて、それがわたしたちをしぶしぶミドル・パッセージへと船出させるように、わたしたちが強くねがっているものを失うことは、自我にとって非常に大きな打撃である。そうした幻想の中で最大のもののひとつは、どこかに幸せという名の桃源郷があって、それが発見でき、そこで永遠に暮らせるだろうというものである。残念ながら、それよりもっと多く起きそうなことは、たましいの沼地にはまり込み、そこに住む無数の不気味な住人に悩まされることである。
沼の住人たちとはまず、寂しさ、喪失、悲しみ、疑い、抑うつ、落胆、不安、罪悪感、裏切りなどである。しかし幸いにも自我は、自分でそう思っているような全能の司令官ではない。こころは、意識の支配を超えたところに明確な目的をもっており、わたしたちに課されているのは、この状態を生き抜き、その意味を見いだすことである。たとえば、何かを失って覚える深い悲しみは、経験されたことの価値を認識する機会といえる。経験されたからには、それが完全に失われてしまうことはありえない。それは心の底と思い出の中に保持されて、これからの人生を助け導くものとなる。あるいは疑いを例にとってみよう。必要は発明の母であると言われてきたが、疑いもそうである。疑いはそれが開示されるときは脅威になるかもしれないが、にもかかわらずそれは開くのである。人間理解における大きな進歩は、すべて疑いから生まれた。抑うつでさえ、生き生きとした何かがそれまで「おさえつけられてきた」という、有用なメッセージを伝えているのである。
わたしたちはその沼地から逃げ出すようにではなく、そのぬかるみの中を進み、その先にどんな新しい生の萌芽が待ち受けているか見るよう、招かれているのである。これらの沼地のそれぞれの領域は、現在のこころの状態を表している。もしも勇気を出してそこに乗り出して行くなら、わたしたちはその意味を見出すことができるだろう。ミドル・パッセージの船が沼の中を必死に進んでいるとき、わたしたちは問いかけてみなければならない。「これはわたしにとって何を意味しているのか。わたしのこころは、何を言おうとしているのか。わたしは、それに対してどうすべきなのか」と。
自分の感情の状態に直接向き合い、それらと対話することには勇気がいる。しかし、自分本来の完全性への鍵がそこにある。たましいの沼地には、意味と、意識の領域を広げる招きがあるのである。これを引き受けることは、人生におけるもっとも大きな責任といえる。わたしたちは、たったひとりでその船の舵を握ることしかできない。そしてわたしたちがそれを行なうとき、[それに乗り出す際に感じた]恐怖は、意味によって、威厳によって、目的によってあがなわれるのである。
多くの人々は、会社勤めなどから解放され、晩年にかけての意義ある生き方を模索することでしょうが、そのためにはまず、それまでに内面深くに追いやったまま抱え込んできた様々な「影」の部分と対面し、それらの心の部分から多くのことを学ばねばならなくなるでしょう。もしもそうした影の部分をたくさん抱え込んだまま、それらに耳を貸さずに生き続ければ、せっかくボランティアやその他の活動に関わっても、結局はそれらをそうした活動に持ち込み、かえって混乱を募らせかねないでしょう。あるいは死期が迫ってから、病床で突然今まで抑え込んでいた恨みつらみを一気に爆発させ、見守っている近親者や友人を困惑させたりしかねません。ですから、自分の内面の沼地にどんな住人が棲息しているか、手遅れにならないうちに確認し、彼らの言い分に耳を傾けることがきわめて重要なのです。
私たちはそれぞれ、本来はかけがえのない一個の「全体」なのですが、会社員、生産者、消費者、夫、妻、家族の一員といった「断片」として生きるよう強いられ、それに異義を唱えないかぎりそこそこの生活を保証されるので、若い頃は少しはあったかもしれない反逆心も、いつしか影を潜め、自分の「全体性」など少しも視野に入らなくなり、そんなものは哲学者や宗教家といった専門家に任せておけばいいというようになるのです。
チャールズ・タートというトランスパーソナル心理学者は、その『覚醒のメカニズム──グルジェフの教えの心理学的解明』の中で、個人にとって非本質的な要素から成る人格を「偽りの人格」と呼び、また本来実現されるべきであった人間の潜在可能性を「本質」という言葉で言い表わし、次のように述べています。
ある一つの文化は人々がどうあるべきかについてのそれ自体の考えを持ち、そしてこれらの考えは、ある一個人の独特の潜在可能性をほとんど気に留めないことがしばしばある。……若干だが幸運な人々がいる。彼らの「本質」の願望と才能の多くが、彼らの文化で求められているものと符合しているのである。が、われわれのほとんどにとって、性別にかかわらず、自分の「本質」の多くは否定される。
こうした否定がわれわれの人生をだめにする可能性がある。なぜなら、「本質」はわれわれの生命に関わる部分、真に生きている生命のきらめきだからである。それは、草原、木立、せせらぎ、大地、そして見なれたあらゆる光景の中に見出された光である。偽りの人格がわれわれの生命エネルギーのほぼ全てを使い果たしていくにつれて、光は薄れ、人生は一組の機械的で自動化した習慣と化し、生気のない他の自動人形化した犠牲者たちの群れと一緒にわれわれを気の抜けたように動かし、さらにわれわれの抑鬱と空虚感を強める。グルジェフはそれを実に苛酷に言い表わし、通りすがりにあなたが見かける人々の多くは死んでいると述べた。「本質」がそのエネルギーのあまりにも多くを奪われ、偽りの人格があまりにも機械化し、自動化してしまったので、真の変化の望みがないのだ。これらの人々は機械的な物になり果て、機械的な人生を生き、機械的な死を死ぬべく運命づけられるのである。
こうした過酷な現実に直面し、それから抜け出すべく人生の意味を再発見するためにも、山奥の道場ではなく、日常生活を最高の道場として活用すべきなのです。そしてその道場で自分自身の内面の混乱、醜悪さに気づくのに特別な瞑想の方式など不要なのではないか、とクリシュナムルティは言うのです。自分の日常生活の中でこそ私たちは自分の正体をさらけ出しているのであり、ゆえにそれから目をそらさず、正直にそれを見つめることが、クリシュナムルティの言う瞑想の基本なのです。かくして彼は次のように言います。
瞑想は生と離れて別にあるものではなく、それはまさに生の精髄であり、日々の生活の真髄である。教会の鐘の音、妻と連れ立って過ぎ行く農夫の笑い声、あるいはまた通りすがりの少女が乗った自転車のベルの音──瞑想が開示するのはそのひとつひとつの断片ではなく、そうした生の全体なのである。(『クリシュナムルティの瞑想録』)
要約するなら、指導者、権威に依存せず、自分自身の偏らない目でものごとを観察し、それによって気づき、理解したことをありのままに伝えること、真理と自分との間にいかなる仲介もはさませないこと、真理の発見にとって不要なすべてのもの(形骸化した伝統、組織、形式、儀式、寺院、私は真理を体現していると自称するグル、等々)を一掃し、懐疑を傾けて虚偽を否定し、それによって虚偽に立脚した社会の心理構造の外に出、そして歓喜に満ちた「本然の生」を生きること──その全体が、クリシュナムルティによって示されたものとしての瞑想であり、未曾有の危機に直面している人類に残された数少ない活路のひとつだということです。