無垢|purity, pure, sincerity…

 

美は
野生的なものだということ
覚えておきなさい。
美は決して文明化されない。
文明化したとたんに、
それは醜いものになってしまう。
美を文明化する方法はない。
美は自然の一部なのだから、
それは野生的なものであらざるをえない。
それは、
はぐくみ育てるものではない。
それは自然なものだ。
木々が美しく、
動物たちが美しく、
鳥たちが美しいのはそのためだ。
醜い鳥や醜い鹿を見つけることは不可能だ。
自然はおのずから美しい。
 
人間だけが醜くなる。
そしてジレンマは、
美しくなろうとするのは
人間だけだということだ。
その美しくなろうとする
まさにその努力の中に、
醜さが入り込む。
その美しくなりたいという
考えそのものが、
あなたは自分が醜いということを
受け容れているということを
示している。
その考えは
あなたの自己非難の中で
方向づけられている。

ひとつだけ確かなことがある──
美しくなろうとしている人は
自分が劣っていることを、
自分が醜いことを、
自分が無価値であることを
受け容れている。
今や彼はそれを隠そうとし、
それを包もうとし、
それを改善しようとしている。
人間は美しくなろうとする
唯一の動物であり、
そして人間は
醜い唯一の動物だ。

だから生において
第一に覚えておくべきことは、
自然──その野生の側面、
野生の海、野生の山々、
野生のジャングル──
に近づけば近づくほど、
あなたはより美しくなるということだ。
美しさの中には喜びがある。
そして美しさからは愛が生まれ、
美しさからは表現が、
創造性が生まれる。
 
美しい人だけが創造的になれる。
なぜなら、
彼は自分自身を
受け容れているからだ。
彼は自分自身であることを喜び、
自分自身であることを
感謝しているので、
その喜びと感謝と受容性からは
創造性が自然に生まれてくる。
神は彼のために
多くのことをしてくれたから、
彼は神のために何かをしたい。
彼は絵を描いたり、
音楽を創ったり、
この世界をもう少しよくすることや、
人類の成長を助けることをしたい。
いずれにせよ、
彼は何かをしたいのであり、
それは神が彼のために
多くのことをしてくれたからだ。
まさにこの感謝の気持ちから
創造性が生まれる──
それが創造性のほんとうの源だ。

だが、
それはあなたが
自分自身を受け容れた時、
仮面の背後に隠れようとしない時、
カモフラージュを
つくり出そうとしない時に、
人格をつくり出すのではなく、
自らの本質が言うべきことを
言うのを許す時に
初めて可能になる。
 
動物には
どのような人格もない。
私は飼い慣らされた動物のことを
言っているのではない。
彼らは人格を持とうとしている。
野生の犬には人格がなく、
ただ本質だけがあるが、
いったん犬が飼い慣らされると、
彼は政治的になり、
駆け引きをするようになる。
彼は人格を持つようになり、
もはや「個」ではなくなる。
彼は自分を偽るようになる。
あなたが彼を叩いても、
それでも彼は
あなたにしっぽを振りつづける──
これが人格だ。
ほんとうは
あなたをずたずたに
引き裂きたいのだが、
彼はあなたが主人であることを
知っているし、
自分の限界を知っている。
じきに夕食の時間になれば、
困ったことになることを知っている。
彼は叩かれ、
お仕置をされるだろう。
彼は自分に力がないことを
知っているから、
ペルソナを、
仮面をつくり出す。
彼は偽者になり、
ふりをするようになり、
文明化され、
教育されるようになる……
そして美しさを失う。

美しさは野生のものであり、
美しさは広大なものだ。
海は荒々しくて広大だ。
向こうの岸を見ることはできない。
美の向こう岸を見ることは
決してできない。
それを感じることはできるが、
それをつかむことはできない。
それを手中にすることはできない。
これを生きることはできるし、
それを楽しむことはできるし、
そのなかに飛び込むことはできるが、
決してその底を知ることはできない。
それは底知れないものであり、
測り知れないものだ。
美は海のようであり、広大、
とてつもなく広大だ。
美には海のような深みがあり、
深ければ深いほど、
それは神聖なものになる。
深みは神聖さを意味する。
深みは神聖さの次元だ。
 
文明化された人間は
表面で生きている。
彼は泳ぐ人であって、
潜る人ではない。
彼は周辺部で
どのように身を処してゆくかを
充分に知っている。
彼は周辺部には
慣れ親しんでいる──
そのやり方、
礼儀、エチケットなどに。
彼のすぐ下には
底知れない深みがあるが、
彼はそれに気がついていない。
 
美は深みから来る。
深くなればなるほど、
あなたはいっそう美しくなる。
そこでは美はこの世のものではない。
なぜなら、
深みは神聖さの次元だからだ。
深く行けば行くほど、
いっそうあなたの内奥の核からの
何かがわき出してくる。
美はつくられるものではなく、
わき出るものだ。
つくられるものは表面にある。

先日、
ある男が友人にこう言うのを
私は読んだのだが、
「私は世界の避妊法を見つけたよ」
友人はたずねた、
「どんな?」
すると彼は言った、
「ただワイフに
 化粧を落せと言うのさ。
 メーキャップを落してしまったら、
 メイクラブする気なんて
 ちっとも起きないからね」
だから、
人びとはメーキャップと
メイクラブしているのではないだろうか? 
それがまさに起こっていることだ。
人びとは人格と愛を交わしている──
それはメーキャップであり、
あなたを包んでいる衣服にすぎない。
それはあなたではない。
だから愛さえも醜いもの、
表面的なもの、
月並みなものになり、
祈り、親密さの質をもたないものに、
永遠の質をもたないものになる。
 
だから私はあなた方に、
これら3つのことを覚えてほしい。
美は荒海のように野生的であり、
大海原のように広大であり──
向こう岸を見ることができないほどに──
そしてそれは、
深みから来るものであって、
けっして表面から来るものではない。
美に至ったなら、
人は至福に至り、
祝福に至る。
 
これが私の言う
「神への準備をする」
ということだ。
美しくありなさい。

Osho – God’s Got A Thing About You

Radha Chihiro
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