新しい人間

 

 改革というのは次々に改革を必要とするため、終わりのない過程です。ですから、改革という考え方は放っておきましょう。私たちの生き方からそれをぬぐい去りましょう。世界を改革したいという考えを完全に忘れるのです。それから、世界中で現実に起こっていることを見てみましょう。政党はいつも偏狭な政策を立てているので、たとえそれが実現したとしても例外なく害をもたらし、そのためまた修正しなければなりません。私たちは、政治的な行為がもっとも重要な行為であるかのように語るのがつねですが、政治的な行為は解決策ではありません。それを私たちの心から捨て去りましょう。

 すべての社会的・経済的改革もこの域を出ません。次に、信念や理想主義や教条主義、またいわゆる「聖なる方法」の尊奉に基づく行為という、宗教的な解決手段があります。ここに含まれているものは、権威、受容、従属、完全に自由を否定することです。諸宗教は地上の平和を口にしますが、彼らこそが分離の元凶であり、彼らこそが無秩序に手を貸しているのです。また教会も危険的状況に際しては、これまでずっと一定の政治的な立場をとってきました。ですから、それは実質的には政治組織なのです。

 私たちはあらゆる政治的行為が分離をもたらすことを見てきました。実際に教会が戦争を否定したことは一度もありません。それどころか教会は戦争を遂行してきました。それでは、政治的な解決手段を捨てたように宗教的な方法も捨てたとき、何が残るでしょうか。どうすればいいでしょう。当然、公共の秩序は維持されなければなりません。水道の蛇口から水が出ることは必要です。公共の秩序を破壊すれば、また一からはじめなければなりません。それでは、どうすればいいのでしょう。

 根源的な変化、全的な変革に関心をもちなさい。人と人、人間どうしの変革だけが変革なのです。私たちが関心をもつのはただそのことだけです。この変革には、青写真やイデオロギーやユートピアの理念はありません。私たちは現実の人間どうしの関係という事実に目を向け、そしてそれを根源的に変えなければなりません。それが真の問題なのです。しかも、この変革は即座になされなければなりません。時間をかけてはならないのです。それは進化によって達成されるものではありません──それは時間を意味します。

 もし変化に時間をかけるとしたら、それはそのあいだ、<生>が一時停止の状態にあることになりませんか。しかし、生は一時停止されたりはしません。あなたが変えようとしているすべての現象は、環境や生そのものによって修正され、永続させられています。ですから、それには終わりがないのです。それは、絶えず汚水が流れ込んでくる水槽を洗浄しようとするようなものです。ですから、時間は無関係なのです。

 それでは、この変化をもたらすものは何でしょうか。それは意志や決意や選択や欲望であるはずがありません。なぜなら、これらはすべて、変わらなければならない当のものの一部だからです。そこで私たちは、つねに葛藤の行為である、意志と自己主張の行為に関して実際にできることは何か──と問わなければなりません。

 そもそも変化する必要があるのは、実際には意志と自己主張の行為だけであることを見てみましょう。なぜなら、個人と個人のあいだ、あるいは個人の内面において、関係に悪影響を及ぼすのは葛藤だけであり、葛藤とは意志と自己主張にほかならないからです。そのような行為のない生は、野菜のように生きることを意味するわけではありません。葛藤こそが私たちの関心の核心です。社会の病巣はすべて、ひとりひとりの人間の心にある葛藤の反映なのです。可能なただひとつの変化とは、漠然とした未来ではなく、今、あらゆる関係のなかであなた自身を根源的に変容させることだけです。

 あなたが本当にこの矛盾を強烈に見るなら、その知覚そのものが変革にほかなりません。あなたが自分の内にある知性と感情の分離を見るとき、実際にそれを見るとき、理論的に想像するのではなくそれを見るとき──そのとき、問題は終わります。世界と変化の必要性に情熱をもつ人間は、政治活動や宗教の尊奉、伝統といったものから自由にならなければなりません。つまり、時間の鎖から自由になり、過去の重荷から自由になり、あらゆる意志の行為から自由にならなければならないのです。これが新しい人間です。ただこれだけが社会的および心理的変革であり、政治的変革でもあるのです。

 

 

愛を生きる

 愛があるとき寛容はありえません。許すということは恨みが積み重なった後でしか起こらないのです。寛容とは激怒のことです。傷がなければ治療の必要もありません。激怒や憎しみを生み出すものは不注意なのですが、それらに気づいた後であなたは許そうとするのです。寛容は分離をますます広げます。「私は許している」という意識があるとき、あなたは罪を犯しているのです。「私は寛大だ」という意識があるとき、あなたは寛大ではありません。「私は沈黙している」という意識があるとき、沈黙はありません。意識的に愛そうとするとき、あなたは暴力的なのです。「私は存在する」とか「私は存在しない」という観察者がいるかぎり、愛はありえません。

 <あるがままのもの>がもっとも神聖であるのは、幻想がないときだけです。幻想がないとき、<あるがままのもの>が神なのです──あるいはほかの呼び方を使ってもかまいませんが。ですから、神は──あるいは、あなたがそれをどのように呼ぼうと──<あなた>がいないときに存在します。<あなた>がいるとき、神は存在しません。<あなた>がいないとき、愛があります。<あなた>がいるとき、愛はありません。

 もしあなたが<あるがままのもの>を見るなら、あなたは世界全体を見ます。<あるがままのもの>を拒否することが葛藤のはじまりです。世界の美しさは<あるがままのもの>のなかにあります。そして、努力なしに<あるがままのもの>と生きることが徳なのです。

 <あるがままのもの>には混乱、暴力、人間のありとあらゆる倒錯も含まれますが、それと戦ってはいけません。そのすべての不幸を自覚しながら、それと共に生きなさい。それが<あるがままのもの>なのです。そして、葛藤なしにそれと共に生きることができれば、私たちはそれから自由になるのです。

 高潔な行為とは純粋に見ること、尺度や観念といった歪みのない<注意深さ>のことです。歪みなく見ることが愛であり、そのように知覚する行為が徳の行為です。その知覚の明晰さがつねに生のなかで働くことが、空を飛ぶ鷹のように生きることであり、それが美を生き、愛を生きることなのです。

 自由があるところに愛があります。愛と自由は英知です。自由と愛を否定するものは分離であって、組織ではありません。組織が分裂するとき、それが戦争へと導くのです。信念がどんな形をとろうと、理想がどんなに気高く影響力をもつものであろうと、理想がどんなに気高く影響力をもつものであろうと、それらは分離を育みます。重要なことは、分け隔てようとする思考の動きです。思考自体がつねに分け隔てるものであり、そのために観念やイデオロギーに基づく行為はことごとく分離をもたらすのです。思考は偏見、意見、判断を培います。内側で分裂している人間は、この分裂からの自由を求めます。しかし、それを見つけることができないので、さまざまな分裂を統合しようとしますが、もちろんこれは不可能です。二つの偏見を統合することはできません。この世界で自由に生きるということは、あらゆる形の分離をすり抜け、愛と共に生きることを意味します。

 恐怖が存在しないとき自由があります。何が真理かを見いだせるのはそのときだけです。<あるがままのもの>が恐怖によって破壊されないとき、その<あるがままのもの>が真理なのです。それは言葉ではありません。真理を言葉で測ることはできません。愛は言葉でも信念でもなく、それをとらえて「私のものだ」と言えるようなものでもありません。愛と美がなければ、あなたが「神」と呼ぶものはまったく無に等しいものなのです。

 

静寂を生きる

 心が静かになるとき、その静寂は新しい次元のものです。ですから、どんなに些末なことが騒ぎ立てていようと、それは即座に消え去ってしまいます。なぜかというと、そのとき心は過去が生み出したのではない、異質のエネルギーをもっているからです。過去の継続を断ち切るエネルギーをもつこと──これが重要なのです。過去を継続させるのはそれとは異なるエネルギーです。静寂がこの別種のエネルギーを一掃します。より大きなエネルギーは小さなエネルギーを吸収しますが、それに染まることはありません。それは汚れた川の水が流れ込んでも、ずっと清らかなままでいる海のようなものです。それが重要なのです。

 このエネルギーだけが過去を一掃するのです。静寂があるか、過去の騒音があるかのどちらかです。この静寂のなかで騒音はやみます。そして、この静寂が<新しいもの>なのです。<あなた>が新しくなるのではありません。この静寂は無限のものであり、過去は有限なものです。満ちあふれる静寂のなかで、過去の条件づけは崩壊するのです。

 

J. Krishnamurti “THE URGENCY OF CHANGE”

 

Radha Chihiro
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