五蘊非我・無我説

創造的状態は、自我が消えた時にのみ、生まれてくる。
「私」がなければ、あなたは条件づけられていない。
「私」が行っていることのすべてを見る時にだけ、それは止まる。
愛があるときのみ、観念は終焉する。
愛は記憶ではない。
愛は感情ではない。
感傷的になったり、感情的に走ることは愛ではない。
感情は思考のプロセスであり、思考は愛ではない。
快楽を与えるのは思考である。
性的な快楽、目的達成の満足感などは思考から生まれる。

クリシュナムルティ

 クリシュナムルティの思想は「無我説」。釈迦自身がそうであったのと同様(正確には五蘊非我説)、それを「無我説」という教義・哲学にはしなかった。彼は、「私」による思考は、分裂を招くと説く。それらは習慣的な反応であり、蓄積された過去であり、それは選択を導き、闘争や恐怖に至るから。逆に思考がなくなった時、「愛」がある。しかし、感情としての「愛」は否定すべきものであり、感情や快楽は思考の産物。そして「自我」、「私」は棄てるべきであると説く。では、そもそも「無我」とは何か。

 

サンサーラ(輪廻転生)

 サンサーラ(輪廻)は、カルマ(業)によって生まれ変わりがおこるという観念であり、再生と再死が繰り返されるというもの。この輪廻説は、「善因楽果、悪因苦果」で「自業自得」を原則とする因果応報思想に論理的に支えられて、紀元前8世紀ごろに、インドの宗教、哲学の前提となる考え方として確立された。

 インド人は、輪廻的な生存のあり方を「苦」と見た。実際、生きるということは苦を伴うことが多いし、生まれたならば、かならず死ななければならない。つまり自己の輪廻転生なのだから、死んでも死ねない。自分と死は切り離せない。これを延々と繰り返すことに、多くのインド人は恐怖すらおぼえた。そこで、輪廻説が確立すると同時に、輪廻からの永遠の脱却、つまり「解脱」を求める人々が現れ、出家となり、さまざまな宗教、哲学を唱えた。

 カルマの原因である欲望を滅却すれば輪廻をめぐる苦悩がなくなるのではないか、そのためには苦行をしたり瞑想をしたりするのが有効なのではないか──仏教の開祖、ゴータマ・ブッダが目覚める前にひっかかっていたのはまさしくこのことだった。若いブッダは6年間の修行時代のはじめの一時期、思考停止を目指す瞑想に打ち込み、いとも簡単に最高の境地に達したが、瞑想をやめればまた欲望が出てくることを疑問に憶え、それをやめて苦行へと向かった。しかし彼は、いくら激しい苦行をしても、苦しみに耐える力はついても、苦しみを永遠に消すことができないことに氣づき、苦行もやめた。

 

五蘊非我説

 ここでブッダは、大きな発見をした。すなわち、輪廻のメカニズムの起点は欲望ではなく、さらにそれをもたらす、ほとんど自覚不能、制御不能な自己にまつわる根本的生存欲(渇愛・無明など)が奥底に控えていることを発見したのである。

 つまり、輪廻転生が恐いのは、そう思う自己があるからで、ならばそのような自己を実感しなくなればいいのだが、そうはいかない。渇愛や無明が動き出さないようにするには、どうすればよいのか。ブッダはこの根本的生存欲を脱するには「智慧」をもつ以外にはないと悟った。人生が苦渋に満ちていることを知り、世の中は「無常」そのものであると諦めること、そう思えることが智慧である。また自己の心身に自己を実感しないように「五蘊非我」(五蘊はすべて我に非ず)を感じられるようにすること、それが彼の智慧であった。

ブッダの出家時:輪廻のメカニズム
「欲望→善悪の行為(カルマ/業、功徳の罪障)→輪廻(苦)」
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ブッダの大発見:輪廻のメカニズム
根本的生存欲(渇愛・無明)→欲望→善悪の行為(カルマ/業、功徳の罪障)→輪廻(苦)」

 ブッダは五蘊**いずれもが常住の自己ではないと説き、それゆえこうした頼りにならないものを錯誤して心身活動の根拠にしてはならないと戒めた。これを「五蘊非我説」という。五蘊には我(自己)がない、非我であると説く。

 **仏教では心身に齎される作用のことを、まとめて五蘊(ごうん)という。「蘊」とはセンシング・クラスター、集まりのこと。色蘊(色や形の集まり)、受蘊(感知する作用の集まり)、想蘊(識別作用の集まり)、行蘊(想起するものの集まり)、識蘊(判断作用の集まり)の5つをいう。

 

「我でない(非我)」から「我がない(無我)」へ

 ゴータマ・ブッダの哲学の核心は、戒定慧(かいじょうえ)の三学──修業体系へと直結するかぎり──という、極めて鋭く限定された経験論にある。ところが、ブッダの滅後、いつの頃からか「非我観」が修正され、仏教は、心身のいずれも自己でないのなら、そもそも自己などというものはないとする、極めて形而上学的な色彩の濃い「無我説」を主張するようになり、彼の精神の根本が忘れられた(しかし、経験論という立場を離れることはなかった)。そして、無我説は、縁起説なるものと結びつき、すべての事象は相互依存的な関係にあり、独立の本体(=自己、我)を持たないという主張に支えられるようになる。ここから仏教は、唯名論と深いつながりを持つようになった。

 すべてのものは因縁によって生ずるもの、つまり縁起的存在であり、それに対応する実体的存在である自己なるものは存在しない、したがって、すべてのものは、仮有(けう)、仮名(けみょう)なのだということになる。「自己(アートマン)」=「自性(スヴァバーヴァ)」と置き換えれば、大乗仏教の「空」の思想となる。そして、新しい仏教論理学(新因明)によると、実在するのは、われわれが知覚によって直接とらえうる個物だけであり、普遍は実在しないという。

 仏教の無我はアンチ・アートマン(真我)思想ではなく、個我を個我たらしめる要素としてのアートマンの実在を、縁起の道理によって否定し、輪廻から解放される解脱への道を示した。

 

Radha Chihiro
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