家族とは何だろう? 「これは僕の家族だ」と君(インドのクリシュナムルティ・スクールの生徒に向かって答えている)が言う時、それは何を意味しているのだろう? 君の父母、兄弟姉妹、親密感、同じ家に住んでいるという事実、両親が君を保護してくれているという気持ち、一定の財産、宝石やサリーその他の衣服の所有──このすべてが家族の基盤である。そして君の家族のように他の家に住み、君たちとまさに同じことを感じ、「私の妻」、「私の夫」、「私の子供」、「私の家」、「私の車」という気持ちを抱いている他の家族がある。
同じ土地にそのような多くの家族が住むようになると、彼らは他の一群の家族によって侵略されまいと思うようになる。やがて力のある家族が上に立ち、大きな財産を獲得し、より多くの金銭、より多くの衣服、より多くの車を所有し、そして結集して法律を制定し、他の家族に何をすべきか命令するようになる。こうして次第に、法律、規制、警官、陸軍、海軍を備えた社会ができ上がっていく。そしてついには地球全体が種々さまざまな社会によっておおい尽くされていく。すると下層の抑圧されている人々は敵対的な観念を持つようになり、高い地位におさまっている人々、権力の手段を一手におさめている人々を打倒しようと思うようになる。こうしてその特定の社会を打倒して、別のものを作り上げる。
われわれは子供たちを自分の気まぐれのゲームにおける「ポーン」(チェスで使われる駒で、将棋の歩に近いもの)として使い、そして不幸の上に不幸を重ねていく。われわれは子供たちを、われわれ自身からの逃避のもう一つの手段として用いるのだ。
家族は社会に対立する構成単位ではないだろうか? それはあらゆる活動をまき散らす中心、他のあらゆる種類の関係を支配する排他的な関係なのではないだろうか? それは、区別、分離、高位者と低位者、強者と弱者を生み出す自己閉鎖的な活動ではないだろうか? 制度としての家族は、すべてのものに逆らっているように思われる。各々の家族は他の家族、他の集団に対立しているのだ。家族は、その財産とともに、戦争の一因なのではないだろうか? 人類は進路をまちがえたのではないか?
なぜこんなことになってしまったのでしょう? クリシュナムルティと晩年にかけて親交のあった、世界的に有名な理論物理学者デヴィッド・ボーム(1917-1992)との間の長い対談集『時間の終焉 (The Ending of Time)』の冒頭でクリシュナムルティは「人類は進路をまちがえたのではないでしょうか?」と尋ねています。これに対してボームは、「ええ、たぶん。以前ある本を読んでアッと思ったのですが、人間は五、六千年前、他人を略奪し奴隷化できるようになりはじめてから、進路をまちがえ、以来もっぱら搾取と略奪に明け暮れるようになったらしいのです」と答えています。
この由々しい事実と密接に関連しているのは、「人類の約90パーセント余りは奴隷の子孫である」(心理学者アドラー)ということです。そして私たちは何千年もの間、自分より強い者に服従し、弱い者をいじめるように「条件づけ」られてきたということです。
クリシュナムルティは、人間の一般的混乱の原因として、彼が現状に満足せず、心理的にたえず何かになろうとしているという事実を挙げています。たえずもっと多くほしがり、より安楽に、より安定したがり、知的に優越したがり、そしてその過程で他者を利用し、より自己中心的領域を広げていき、かくして自分という断片をたえず他の断片と衝突させ続けてきたのです。国家間、イデオロギー間の衝突、戦争、かつての植民地支配はその最終的な帰結です。たえず何かになろうとする心理的習性は、根深い条件づけの結果であり、それがいかに破壊的かに気づくことは容易ではありません。しかしこの心理的メカニズムをとめないかぎり、われわれは永久に本然の生を生きることはできないのです。
いま生きるかわりに、いつか生きるため、社会や自分自身が立てた目標に向かってたえずせわしなく、不毛な努力を繰り返し続けていくだけです。悟りを得るため、非暴力的になるために修行し努力する間中ずっと、奇妙にも狭量で暴力的であり続け、生の芳香にけっして浴することはないのです。風にそよぐ草、壮麗な日没、子供たちの歓声、小川のせせらぎ、鳥の鳴き声などの生の歓喜は、何かになろうとして不毛な努力を重ねている者のかたわらを通り過ぎてしまうからです。
そしてクリシュナムルティは、人間が「内面的に貧しければ貧しいほど、それだけ外面的なものをより多く蓄えようとする」ことを見抜きました。逆に言えば、内面的に豊かであればあるほど、人間は外面的に多くを求めず、必要最小限の衣食住に甘んじ、喜々として「シンプル・ライフ」を生きるようになるということです。
ヴァン・ゴッホはかつて、弟のテオとの会話の中で、「キリストがあれほど限りなく偉大なのは、どんな家具も、その他の愚劣な付属品も、彼の行手を邪魔しなかったからだよ」と言ったそうです。
クリシュナムルティは、彼自身が現に生きているところの、内面的に豊かな生の障害となっているものを指摘し、誰もがそういう豊かな生──あるいは「本然の生」──を生きることができるように手を貸し続けたのです。