「パラサイト・シングル(中国語訳「寄生独身者」)」予備軍の若者が、たまたまOshoやクリシュナムルティの本を読んだらどうなるか?これはスピリチュアル難民にも関係する。以下、世界的な変性意識研究の第一人者かつトランスパーソナル心理学にも決定的な影響を与えたチャールズ・タートの言葉。
誰も、自分が通常の発達課題をこなしそこなったとは思いたくない。けれども、もしあなたがこなしそこなったら、表向きその苦痛を軽減するための一つのやり方は、新しい見方をすることによって自分のこなしそこないを合理化することである。
「私はこなしそこなったりなんかしていない。他の皆が偽って正しいと言っていることが間違いであり、まやかしであることを見抜き、それを超越してしまったのだ!」 たとえば、もし人々と気持良く話し合うことができなければ、それは自分がいくつかの基本的な社交的技能を習得しなかったからではなく、他の人々がまやかしであるか、冷酷であるか、気配りが足りないからである。
当然、優秀で繊細な存在たるあなたは、彼らに取り巻かれていると気持良くしていられないのだ。もしあなたが安定した勤めを維持することができなければ、それはあなたが一定の共通技能を欠いているか、あるいはそれらを用いようとしないからではなく、労働者たちを搾取し抑圧する資本主義制度が悪いのである!
この種の防衛的な見方にはしばしば多くの真実が含まれているという事実が、それらをなおいっそう強力にする。むろん、人々は、ある程度までまやかしで、冷酷で、気配りが足りない。むろん、ほとんどどんな制度においても、労働者たちへのなんらかの搾取と抑圧がある。しかし、通常の人々は、驚くべき程度まで誠実で気配りすることができ、そうかと思うと、仕事をきちんとしようとしないか、またはそうできないが故に失業する可能性がある。けれども、通常の人のほとんどは、人生をうまく過ごすことにほどほどに成功することができる。
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ここに、覚醒や悟りについての観念の危険性が入り込んで来る。あなたがさまざまな通常の発達課題をこなしそこなった場合、これらの観念が、自分の欠陥に直面し、それらの是正に取り組むのを避けるための魅惑的でもっともらしい合理化を提供する。
「私が通常の人々に取り囲まれていると気持良く感じないのは、彼らが眠っているからだ。だから、私のような繊細な魂の持ち主、求道者、がなぜ彼らと付き合わなければならないのだ?」「私がどの勤めにも長く留まらないのは、愚かな文化適応のまやかしを見抜いているからだ。私は、腰を据えて愚かな労働者の境涯に甘んじるといった、凡庸で堕落した状態を超越しているのだ」。
覚醒や悟りについての観念は、せいぜい、あなたがどのみち本当は変えるつもりのない、自分の状況についての心地好い白昼夢をかきたてるだけである。最悪の場合、それらはあなたが持っているなけなしの社交的技能をも手放すことを助長し、自文化へのさらなる不適応に資する一因となる。
-チャールズ・タート
彼らは「高い道徳レベルへの発達をめざしている自分がこのような企業社会に入ることを拒まざるをえないのは当然ではないか」などと主張するでしょう。だからこそ、現代社会自体が抱えてきた根本問題を徹底的に理解した上で、教育について真剣に考えることが極めて重要なのです。
あくまでも私の考えです。
決して、誰かに強要しているわけではない。
解釈は、人それぞれです。
真の覚醒は書物だけでは学び得ない。
道徳的・倫理的な自己確立ができていない状態における
ワンネス体験、クンダリニー覚醒した、融合したなどという体験よりも、
目の前の関係性から自分の煩悩の酷さに気づき悩めるようになった、という
経験そのものが重要で、価値がある。
一度底をつく経験なくして真の覚醒はない。
失敗や絶望、魂の闇夜……。
関係性からの真の学び。
自己認識とは、
自分を客観的に知るメタ認知であり、
それは瞑想からくる単独性、独在性。
一方
相手の思考、感情を知る能力
つまり思いやりや慈悲深さは、
内観からくる。
ここに社会性、間主観性がある。
自分に恐怖がない(苦しくなくなる、楽になる)だけではなく、
自分の周りの他者をも苦しめない、これが実現していない、
あるいは実現する方向に向かわない修行や瞑想体験、
倫理なき覚醒は、本物ではない。
人は学び守り吸収する時があり、
それを静かに破り始める時があり、
それからまさしく離れる時が来る。
この経験なくして真の霊的進化はない。
(一足飛びできない)
意識の変容…その先にある何か。
生命は静止してはいない…それは流れである。
もしあなたが他者を虐シイタげれば、あなたは自分を虐げる。
私たちはバラバラではなく、ひとつの全体なのだ。
籠った、目を覚ました、次にどう生きるか。
自分を解放する、ひらく。存在と融合する。
その先に、絶対的自由がある。