アヒンサー|Ahimsa

 

バガヴァーンは語られた。──無恐怖、自らの存在を浄化すること、精神的知識の養成、布施、自己抑制、供儀、ヴェーダ学習、謹厳生活、質素であること、非暴力、誠実さ、怒らぬこと、離欲、平静、他人を咎めだてぬこと、生き物全てに哀れみの情を持つこと、羨望せぬこと、温和であること、謙虚さ、揺るがぬ決意を持つこと、活発さ、寛容、不屈の精神、清潔さ、嫉妬や名誉欲がないこと、このような超越的な性質は神聖な質を持つ神聖な人々のものである。

Bhagavad-Gita 16.01-03

 

 アヒンサー(Ahimsa)とは、いかなる生物であったとしても、その生命の進歩するプロセスを阻止してはならないということである。精神魂は肉体が滅んだ後も滅ばないので、感覚満足のために動物を殺しても差し支えないと考えるのは誤りである。現在、穀物、果物、牛乳の供給が十分あり動物を殺す理由は全くないにも関わらず、人は好んで動物を食べている。このアヒンサーは誰もが守るべきである。他に方法がない場合には、動物を止むを得ず殺すこともあるが、必ずその動物を供養する中で捧げなければならないことになっている。いずれにせよ、精神的進歩を望む人は他に食物があるときには決して動物に暴力を行使してはならない。真のアヒンサーとは生命の進歩のプロセスを阻止してはならないという意味である。動物たちも様々な生命形態の間を転生しながら進化の過程をたどっていて、動物が殺されれば、その進化が阻害されてしまうのである。動物が寿命の尽きないうちに時ならず殺されてしまえば、他の形態に進化するためには残りの期間をまたその形態にもどって過ごさなければならない。ゆえに単に人間の味覚を満足させるために、動物の進歩を阻止してはならない。これがアヒンサーである。

(参考文献:アバイ・チャラナラヴィンダ・バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ (1990)『バガヴァッド・ギーター あるがままの詩』, バクティヴェーダンタ文庫社, pp.852-853.)

 

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 アヒンサー(デーヴァナーガリー: अहिंसा; IAST ahiṃsā)は 非暴力(文字通り:暴力(ヒンサー)の忌避)を意味するサンスクリット の用語で、古代インドに起源を発した宗教(ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教)の重要な教義である。インドでは「アヒンサー・パラモ・ダルマ(धर्म Dharma)」(非暴力は仏法の中で最上のものである)と言われている。アヒンサーは生き物を殺したり害したりすることを禁止するという行動規範で、あらゆる種類の暴力が好ましからざる業果をもたらすという信念に密接に関連付けられる。非暴力の原理を(人間以外の)異なる生命形態にどこまで広げるかは、前述の三つの宗教内において種々の権威者・活動・流派間で物議をかもし、何千年ものあいだ論争の題材であった。

 アヒンサーという概念の起源は不明であるが、アヒンサーに対する最も早い言及は歴史的なヴェーダ教の聖典に見られ、これは紀元前8世紀のものと年代が特定されている。ここでアヒンサーは初めのうちは倫理的な含蓄なしに「不傷害」という意味であったが、後に動物への非暴力、ついにはあらゆる生物への非暴力という意味となった。この概念はヒンドゥー教の聖典『マハーバーラタ(महाभारतम् Mahābhāratam)』と『マヌ法典(मनुस्मृति)』に現れ、そこでアヒンサーは良い業に値すると言われている。肉食と動物の屠殺はいくつかのヒンドゥー教聖典で非難されているが、他の聖典では狩猟と祭式犠牲の指示という対立する論証が示されている。19世紀と20世紀に、ヴィヴェーカーナンダ、ラマナ・マハルシ、スワミ・シヴァナンダ、A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダのようなインド精神世界の傑出した人物がアヒンサーの重要性を強調した。マハトマ・ガンディーは彼の非暴力活動であるサッティヤーグラハによって、政策にアヒンサーを適用した。

 ジャイナ教におけるアヒンサーは如何なる肉食を避けるだけでなく、植物の殺生に通じる芋などの球根類の摂取が禁じられている。さらに小さな昆虫や他の非常に小さな動物さえ傷つけないようしようと道からそれるなど、毎日の生活で極力動植物を害さないようにと少なからぬ努力を行う。この方針に従い、農業それ自体と同様に、その栽培が小さな昆虫や虫を害することになる作物を食べることが慎まれている。自己防衛、刑法、戦争における暴力はヒンドゥー教徒とジャイナ教徒によって許されている。他の二つの宗教と違い、仏教においてアヒンサーは専門用語として使われてはいないが、祭式犠牲と戦争は強く非難され、倫理規則では生命を奪わないことの重要性を強調している。

ヨーガ

 アヒンサーはパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』古典的なヨーガ(ラージャ・ヨーガ)の実行者には必須であり、それは行動規範を成す5つのヤマ (禁戒/Yama)のうちのひとつであり、行動規範はこの道を構成する8つの部分の最初である(八支則/アシュタンガ/Ashtanga)。バクティ・ヨーガの学校ではヴィシュヌまたはクリシュナを崇拝する帰依者は特にアヒンサーに熱心である。バクティ・ヨーガの学校 Radha Soami Satsang Beas では菜食主義と「アヒンサー」の観点での倫理的な生活を遵奉している。古典的な指南書である『ハタ・ヨーガ・プラディーピカー』(1.1.17)によるとアヒンサーはまたハタ・ヨーガにおいても義務である。

人間以外の命

 ヒンドゥー教徒は実質上人間の体の中の魂と動物の中のそれを区別しない。行動規範と結び付けられたアヒンサーは狩猟、畜殺、肉食および暴力的手段によってまかなわれる動物製品の使用の禁止を暗に意味するがゆえに、動物に対する倫理的な義務とそれらに対する暴力から招く好ましからざる業の問題がいくつかのヒンドゥー教聖典と宗教的な法典において詳細に議論された。

 権威の高い様々な聖典において、祭式犠牲の場合を除き家畜に対する暴力を禁じている。この点は『マハーバーラタ』、『バーガヴァタ・プラーナ』(11.5.13-14)と『チャーンドーギア・ウパニシャッド』(8.15.1)で明白に表現されており、特に名声のある伝統的ヒンドゥー教法典(ダルマ・シャーストラ)である『マヌ法典』(5.27-44)にも反映されている。これらの文献では動物の屠殺と肉食は強く禁止されている。『マハーバーラタ』では戦士(クシャトリヤ)による狩猟は許されるが 、厳格に非暴力であるべき隠者では禁止される。

 それにもかかわらず、これら情報源ではアヒンサーの賛同者と肉食を行う者との間の歩み寄りが危なっかしくかつ激しく論じられており、アヒンサーの唱道者によって祭式屠殺と狩猟という抜け道さえ要求されている。『マハーバーラタ』と『マヌ法典』(5.27-55)は祭式屠殺の合法性について長々しい議論を含んでいる。『マハーバーラタ』においては、どちらの側も自分の観点を実証する種々の主張を提示している。さらには狩人が長い論説で自身の職を弁護している。

 動物への非暴力の賛同で示された議論の多くが、生前または死後に課せられる報いと暴力による恐ろしい業果に言及している。特に、故意に動物を殺した者が後生で業に対する報いのために動物に食べられるであろうことを指摘している。アヒンサーは神秘的な能力、無上の喜びと最終的な救済を獲得するための必要条件として記述されており、さらにはあらゆる種類の危険から守ると言われている。『マヌ法典』(10.63)、カウティリヤの『実利論』(1.3.13)と『ヴァシシュタ・ダルマ・スートラ』(4.4)ではアヒンサーは社会におけるすべての四階級(ヒンドゥー教のヴァルナ)に対する義務であると指摘している。文献ではアヒンサーは全ての形態の生命に拡張されるべきであると宣言されている。それらはまた植物の保護にも注意を払っている。『マヌ法典』では野生の植物と栽培した植物の両方に対する理由のない破壊を禁止している(11.145)。隠者(サンニャシン)は植物の破壊を避けるためにフルータリアンな食事に基づき生活しなければならない。

 この状況において、狩猟と祭式屠殺の擁護者はそれらの活動の暴力性を否定しなければならなかった。彼らは法律に則った暴力は実際には暴力ではないと想定した。彼らによれば、犠牲のための殺害は殺害ではなく、世界全体の繁栄を意味する。彼らはまた、屠殺された動物は輪廻転生で高貴な再生を得られるであろうから、そのような殺害は実際には情け深い行為であると提唱する。さらには、いくつかの種は犠牲として捧げられ人間に食べられる目的のために創造されたのだ、殺したり他の動物を食べることは動物にとっては普通のことである、農業も必然的に多くの動物の死を導いている、植物は破壊されてもまだ活気ある生物なのである、我々はいつも何気なく意識せず生命形態を破壊している、狩猟される動物も狩人を殺すことで生き残るための公平な機会を持っている、などと主張する。

インド精神世界の偉人たち

 近代のヒンドゥー教ではヴェーダ聖典で許された祭式のための屠殺は事実上姿を消した。19世紀と20世紀において、スワミ・ヴィヴェーカーナンダ(Swami Vivekananda)、ラマナ・マハルシ(रामन महर्षि)、スワミ・シヴァナンダ、A.C.バクティヴェーダンタ・スワミ・プラブパーダ(Abhay Charanaravinda Bhaktivedanta Swami Prabhupada)といったインド精神世界の傑出した人物はアヒンサーの重要性を強調した。

 マハトマ・ガンディーは人生の全領域(特に政策)に対してアヒンサーを適用することでとても上手にその原理を推進した。彼の非暴力抵抗活動サッティヤーグラハはインドに計り知れない衝撃を与え、西側諸国において一般世論に訴えかけ、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアのような色々な民権活動の指導者に影響を及ぼした。アヒンサーは肉体的危害を加える行動だけでなく、悪い考えや憎しみ、荒々しい言葉のような善からぬ振る舞い、不誠実や嘘など、アヒンサーと相容れない暴力の現われであると彼がみなす全てを起こらないようにするとガンディーは考えた。オーロビンド・ゴーシュはガンディーのアヒンサーの概念を非現実的で例外なく適用できるものではないと非難した。彼は暴力の正当化は与えられた状況の特殊な事情に依存すると言い、実際的な非平和主義的立場を取り入れた。

ヴェーダ

 歴史的なヴェーダ教はヴェーダ時代に繁栄し、紀元前数百年代の中頃まで続いた。現代の学者間で優勢となっている見解によると、動物の継続的な犠牲を伴う祭式上の動物犠牲は顕著な慣習であって、非暴力の原理はあまり知られていなかったか、または尊重されていなかった。

 アヒンサーという用語は『ヤジュル・ヴェーダ』のTaittiriya Samhita(TS 5.2.8.7)に現れ、そこでは生け贄を捧げる者自体への不傷害に言及している。それは『シャタパタ・ブラーフマナ』において倫理的な含蓄なしに「不傷害」の意味で何回か現れる。明らかに倫理的な意味で、動物への非暴力(pashu-ahimsa)の概念に対する最初の言及は、『ヤジュル・ヴェーダ』のKapisthala Katha Samhita(KapS 31.11)で、それは恐らく紀元前8世紀に書かれたものである。最も古いウパニシャッドで紀元前8世紀か紀元前7世紀の年代のものと思われている『チャーンドーギア・ウパニシャッド』は、ヒンドゥー教で馴染み深い意味(行動規範)でのアヒンサーという言葉の使用に対する最初の確証を含んでいる。それは「あらゆる生物」(sarva-bhuta)に対して暴力を禁止し、アヒンサーの実施者は転生の循環から解脱すると言われている(CU 8.15.1)。またアヒンサーは五つの非常に重要な徳のひとつとして示されている(CU 3.17.4)。

アーユルヴェーダ

 情報源のいくつかの文献では、問題の倫理的側面に触れることなく肉食について議論している。紀元前5世紀または紀元前4世紀に書かれた法典ダルマ・スートラは肉食に対する規定と食べられる動物の一覧を含んでいる。『アーユルヴェーダ』の医療論説ではアヒンサーの側面に触れることなく純粋に健康に関する観点から肉について議論し、それを推奨している。例えば3世紀か4世紀に書かれたSushruta Samhitaではある種の患者と妊婦に対して牛肉を推奨し、Charaka Samhitaでは病後療養中の患者にはどの種の食べ物よりも優れていると肉を記述している。

哲学的見地

 アヒンサーに関する全歴史的でかつ哲学的な研究はアルベルト・シュヴァイツァーの「生命への畏敬」の原理を形成するのに助けになった。シュヴァイツァーは(傷ついたものを助ける)積極的な行動の重要性を強調する代わりに暴力を避けるという消極的な原理として考えられてきたアヒンサーに対するインド人の哲学的かつ宗教的伝統を非難した。

ジャイナ教

 ジャイナ教ではアヒンサーの申し合わせと実行が他のいかなる宗教よりもより徹底的で、厳正で、包括的である。非暴力はすべての人に対する最も根本的な宗教的義務として見られている。(ahiṃsā paramo dharmaḥ、ジャイナ教の寺院でしばしば記されている文)ヒンドゥー教のように、有害な業の蓄積を防ぐことが狙いである。紀元前6世紀または紀元前5世紀にマハーヴィーラがジャイナ教の運動を復興し、再編成した時、アヒンサーはすでに確立され、厳格に遵奉された規則だった。ジャイナ教の最初期の指導者(ティールタンカラ)で近代西洋歴史家が歴史的人物であったと考えているパールシュヴァはおおよそ紀元前8世紀に存在していた。彼はマハーヴィーラの両親が所属していた団体を設立した。アヒンサーは既に「四戒」(Caujjama)の一部で、その誓戒はパルシュヴァの後継者たちによって保たれた。マハーヴィーラの時代とその後の時代において、ジャイナ教徒は仏教徒ともヴェーダ教の後継者やヒンドゥー教徒のいずれとも仲違いしており、彼らをアヒンサーの遂行において不注意があり矛盾があると非難した。しかしながら、原始ジャイナ教の苦行者は、動物が明らかに彼らのために殺されたのでなければ、布施としてその肉を受けたといういくつかの証拠がある。近代のジャイナ教ではこれは激しく否定しており、マハーヴィーラ彼自身に関しては特にそうである。ジャイナ教の伝統によれば、ラクト・ベジタリアニズムまたはヴィーガニズムが強制されている。

 ジャイナ教のアヒンサーの概念はいくつかの面で特徴的である。そこでは祭式犠牲供養者や職業的な戦士狩猟者に対していかなる例外も作っていない。食物のために動物を殺すことは絶対に規則違反である。ジャイナ教徒は出来る限り毎日の生活において植物を害さないように少なからぬ努力を行う。彼らは食料のために植物が破壊されることを許すが、彼らはそれを人間が生き残るために避けられないものであるときに限って受け入れ、植物に対する不必要な暴力を避けるための特別な指示が存在する。ジャイナ教徒は小さな昆虫や他の非常に小さな動物さえ傷つけないようにしようと道からそれる。彼らの視点では、注意不足により起こった傷害は故意の行動により起こった傷害に等しい。蜂蜜を食べることは、蜂に対する暴力になるため、厳格に違法となる。いくらかのジャイナ教徒は、農耕が虫や昆虫といった多くの小動物の意図しない殺害や傷害に必然的に至るためそれを慎んでいるが、一般には農業は禁じられておらず、ジャイナ教徒の農場経営者がいる。

 対照的に、自己防衛時の暴力は正義であるということと戦争で敵を殺す戦士は合法的な義務を遂行しているということでは、ジャイナ教徒はヒンドゥー教徒と意見が一致している。ジャイナ教の共同社会では防衛のための軍力行使は許され、ジャイナ教徒の君主、軍事司令官、戦士が存在する。

 理論上は全ての生命形態があらゆる種類の傷害から保護されるべき価値があると言われているけれども、ジャイナ教徒はこの概念が実際上は完全には実施できないことを認めている。移動性のある生き物が移動性のない生き物より高い保護を受けられている。移動性のある生き物に対して、彼らは1感覚の存在、2感覚の存在、3感覚の存在、4感覚の存在、5感覚の存在と区別する。1感覚の動物は唯一の感覚器官として触覚を持っている。より多くの感覚を持っている存在ほど、その保護に関してより注意が払われる。5感覚の存在のなかでは、理性のあるもの(人間)がジャイナ教のアヒンサーによって最も強く保護される。アヒンサーの遂行について、anuvrate(小誓戒)を受けた在家の人々に対してよりも、mahavrata(大誓戒)に拘束される僧侶や尼僧に対しての方が必要条件がより厳格である。

仏教

 ヒンドゥー教やジャイナ教の情報源とは違い、原始仏教聖典ではアヒンサーは専門用語として使われていない。非暴力に対する伝統的な仏教徒の申し合わせはジャイナ教徒のものほど厳格ではないが、ジャイナ教徒と同じく、仏教徒は常に祭式犠牲で動物を殺すことを強く禁じていた。ほとんどの仏教徒の伝統では、菜食主義は強制的なものではなかった。僧侶と在家者はその動物が彼らのために特別に殺されたのでなければ肉や魚を食べてもよかった(三種の浄肉)。

 仏教教団ができて以来、比丘と尼比丘は倫理規範の十戒(不殺生/ふせっしょう:生き物を殺してはならない)を受けねばならなかった。原始仏教では、強制はされなかったが、在家者は道徳として五戒を受けるのが奨励された。どちらの規範でも最初の規則は感覚のある生き物の命をとること(pāṇātipātā, 殺生)を慎むことである。

 原始仏教は犯罪人を罰する暴力的な方法や戦争について強い疑念を持っていた。それらはいずれも明示的に禁止されていなかったが、戦争解決の平和的方法と最低限の傷害を伴う刑罰が奨励された。

五戒:不殺生戒

 五戒(ごかい, サンスクリット語: pañcaśīla, パーリ語: pañcasīla)とは、仏教において性別を問わず、在家信者が守るべき基本的な五つの戒(シーラ)のこと。

 第一の戒は、衆生の命を奪うことを禁じたものである。これはある者が意図的に、それは衆生であると理解しており、その実行に努めることで衆生を殺すことに成功した場合に該当する。外傷を与えることはその理念的には反するが、技術的には、この戒を破るものではない。この戒には、動物、小さな昆虫の命を奪うことも含まれます。この生命を奪うことの重大さは、その生物の大きさ、知性、得られる利益、スピリチュアルな発達度に依存するともされている。大きな動物を殺すことは、小さな動物を殺すことよりも悪いとされる(大きいほど多くの努力を要するため)。精神的に完成した存在を殺すことは、別の「より平均的な」人間を殺すことよりも厳しいと見なされる。そして人間を殺すことは、動物を殺すことよりも厳しい。しかし、すべての殺害は非難される。この戒が示す美徳は、生ける者の尊厳への尊重である。

 カンボジアとビルマでの現地調査は、多くの仏教徒が最初の教訓を最も重要、または最も非難されるべきと考えていることを示された。いくつかの伝統的な社会、たとえば戦前カンボジアのカンダル州、1980年代のビルマなどでは、仏教徒が動物のと殺にかかわることは稀であり、肉類は非仏教徒から買わなければならなかった。1960年代のタイにおいては、Terwielののフィールド調査によれば、村人は昆虫を殺す傾向があるが、大型動物の殺害に関しては消極的で自己矛盾であることが発見された。しかしSpiroのフィールド調査においては、ビルマの村人は昆虫を殺すことすら非常に嫌がっていた。

 初期の仏教徒は菜食主義のライフスタイルを採用してはいなかった。実際にいくつかのパーリ経典では、菜食主義は精神的浄化とは無関係であると説明されている。ただし、特定の種類の肉、特に社会から非難されている肉には禁止事項があった。 動物の生命を殺すことを控えるという考えは、肉や生物の取引にかかわる職業の禁止につながったのだが、牛などすべての農業の完全な禁止には至っていない。現代においては、需要と供給やその他の理念をもとに、いくつかの上座部仏教は五戒の一つとして菜食主義を実践している。たとえばタイのサンティアソーク運動は菜食主義を実践している。

 

 

 Ahimsa means not arresting the progressive life of any living entity. One should not think that since the spirit spark is never killed even after the killing of the body there is no harm in killing animals for sense gratification. People are now addicted to eating animals, in spite of having an ample supply of grains, fruits and milk. There is no necessity for animal killing. This injunction is for everyone. When there is no other alternative, one may kill an animal, but it should be offered in sacrifice. At any rate, when there is an ample food supply for humanity, persons who are desiring to make advancement in spiritual realization should not commit violence to animals. Real ahimsa means not checking anyone’s progressive life. The animals are also making progress in their evolutionary life by transmigrating from one category of animal life to another. If a particular animal is killed, then his progress is checked. If an animal is staying in a particular body for so many days or so many years and is untimely killed, then he has to come back again in that form of life to complete the remaining days in order to be promoted to another species of life. So their progress should not be checked simply to satisfy one’s palate. This is called ahimsa.

Be compassion of “all that is”

 

 

LOVE

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