Regarding the OSHO sannyasin name “Radha”
Radha:
The river moving towards the origin
源へ向かう川
ラーダとは、海へ向かうのではなく、源流へ向かって流れる川の奔流を意味する。そして人は、人生の全過程を目標へ向かう動きから、源流へと深く深く…潜り込む動きへと転換した時にのみ、神の愛する者となり得る。ダーラであることから、ラーダへと変容するのだ。─OSHO
RADHA means the flow of a river moving toward its origin, not toward the ocean. And one can be a beloved of God only if one turns the whole process of life from moving toward the goal to going deeper and deeper down toward the source, from being a DHARA, one becomes a RADHA. ─OSHO
為無為──無為の為|なさざるをなす
独りあること。何ものでもないこと。無であること。
Aloneness, Nobodiness, Nothingness
The Living Presence of RC with OSHO
Oshoの教えにおいて、「源へ向かう川」は霊的探求者の旅を象徴する比喩であり、それは「海」(世俗的な追求)から背を向け、生命の源へと回帰する「ラーダ」によって表される。 サンスクリット語で「ダーラ」と呼ばれる「川」自体は、通常、源流から海へと流れ、生命の自然な流れを表している。「ラーダ」が源を求めるようにこの流れを逆転させることで、人は自由を達成し、存在の源へと回帰することができる。
In the teachings of Osho, a “river moving towards the origin” is a metaphor for the spiritual seeker’s journey, symbolized by Radha, who turns back from the “sea” (worldly pursuits) towards the source or origin of life. The “river” itself, called “Dhara” in Sanskrit, typically flows from its source to the sea, representing the natural flow of life. By reversing this flow, as Radha does by seeking the origin, one can achieve freedom and return to the source of being.
ラーダとダーラ
・ダーラ(धार)は川の自然な流れの方向であり、源流から最終的な行き先である海へと流れる。
・ラーダは、ダーラの逆行した形態であり、魂の内なる旅を象徴する。彼女は愛する者、世俗的な存在から背を向け、源、起源へと向かう探求者を表す。
象徴的な旅
・源流:生命や存在の始まりそのもの、あらゆる存在の源。
・海:集合体を表し、生命の自然な流れの目標、あるいは個人の旅の終着点。
・川の逆流:既知(外の世界、海)から未知(内なる自己、起源)へ戻ろうとする意識的な精進。
ゴール
・悟りと自由:起源を求めることで、個人は苦しみの根源を見出し、苦しみの循環と個人の心/マインドの限界からの解放を達成できる。
・大海となること:究極の霊的悟りの状態とは、普遍的な精神、すなわち大海と一体となり、個々の川としての存在が消滅することである(自我の消滅)。
流れを逆転させる方法
・存在への愛:Oshoは、愛こそが起源へ回帰する道であり、あらゆる存在への愛であると強調する。
・内なる気づき:深い沈黙、内なる静寂、リラックスした非判断的な気づきへの旅は、真の自己(真我)と宇宙の叡智の悟りへと導く。
Radha and Dhara
–Dhara(धार) is the natural direction of a river, flowing from its origin to its eventual destination, the sea.
–Radha, in Osho’s teachings, is the reversed form of Dhara and symbolizes the soul’s journey inward. She represents the beloved, the seeker who turns back from the worldly existence and moves towards the source, the origin.
The Symbolic Journey
–The Origin: The very beginning of life or existence, the source of all being.
–The Sea: Represents the collective, the goal of the natural flow of life, or the end of the individual journey.
–The River’s Reverse Flow: The conscious effort to move from the known (the outer world, the sea) back to the unknown (the inner Self, the origin).
The Goal
–Enlightenment and Freedom: By seeking the origin, the individual can find the source of misery and achieve liberation from the cycles of suffering and the limitations of the individual mind.
–Becoming the Ocean: The ultimate state of spiritual realization is to become one with the universal mind, or the ocean, thereby disappearing as an individual river.
How to Reverse the Flow
–Love for Existence: Osho emphasizes that love is the way to move back to the origin, a love for all that is.
–Inner Awareness: A journey into deep silence, inner collectedness, and a relaxed, non-judgmental awareness leads to the realization of the true Self and the Kosmic wisdom.

サニヤスとは
サニヤスとは、何にも増して勇気を意味する。なぜなら、それは、あなたが個人であるという宣言、自由の宣言、もはやあなたは群集の狂気、群集心理の一部にはならないという宣言だからだ。それは、あなたは普遍的になるという宣言だ。そしてあなたは、どんな国家にも、どんな教会にも、どんな人種にも、どんな宗教にも属さなくなる。
──Osho, Fingers Pointing to the Moon, Number 7
自己を知らない立場から生を見ることがサンサーラ、世間だ。自己を知っている立場から生を見ることがサニヤスだ。真理を外套のように身にまとうことはできない。真理はあなたの内で目覚めるべきものだ。サニヤスは生まれでる。それは理解を通して訪れ、そしてその理解のなかで私たちは変容され続ける。私たちの理解が変化するにつれて、何の努力もなく私たちの視点が変わり、そして振るまいも変容される。世間はそのままそこにあるが、サニヤスは徐々に私たちの内側で生まれ始める。サニヤスとは、『私は身体であるだけではなく、魂でもある』という認識だ。これを知ることよって、私たちの内にある無知と執着が落ちていく。世間は外にあり、そして、それは依然としてそこにあり続けるだろう。しかし、私たちの内では、それに対する執着が消える。別の言葉でいうなら、そこに世間はない、私たちの内にサンサーラはない。
──Osho, The Perfect Way, Number 3
生を十全に生きることだ。ただし、それには絶対的条件、明確な条件がある。その条件とは、気づき、瞑想だ。まず最初に深く瞑想のなかに入りなさい。そうすればすべての有毒な種子であるあなたの無意識を浄化することができる。そこに何も腐敗するものがなくなり、あなた内側にあなたを牛耳るものがひとつもなくなる。そうなったら、何であれ、あなたがしたいと感じることをやりなさい。
──Osho, The Dhammapada: The Way of the Buddha, Vol. 6. Number 40
私はどのような付随的要素もついていない人のことをサニヤシンと呼ぶと言っている。そして、付随的要素がなかったら宗派をつくることは難しい。付随的要素がなければ、宗派はつくれない。私は宗教に属していない人をサニヤシンと呼ぶ。宗教がないのに、どうして宗派をつくれるかね? 宗教的経典を持たず、宗教上の師を持たず、寺院も、モスクも、教会も、シーク寺院も持たない人を、私はサニヤシンと呼んでいる。だから、宗派をつくることは難しい。私たちは宗派がつくられることのないように努力すべきである。なぜなら、宗派は他の何にも増して宗教性に害を与えてきたからだ。無宗教性は宗派ほどには宗教性に害を与えてこなかった。
──Osho, Krishna: The Man and His Philosophy, Number 22
私がサニヤシンでありなさいと言うとき、それが意味するのは『ただ在りなさい』ということだ。あなたの黄土色のローブ、あなたのマーラ―──これらはルールだ。これはゲームだ。私が意味する本当のサニヤスは、これではない。
だが、あなたは余りにもゲームに慣れ親しんでいるから、私があなたをルールのない生に導く前に、移行期としてあなたにはルールが必要になる。規則やゲームでできているこの世界から、規則やゲームのないあの世界に移行するには、橋を渡らなければならない。あなたのオレンジ色の服、あなたのマーラは、ただその移行期のためにある。あなたはルールを直ちに落とすことができない。だから、私はあなたに新しいルールを与える。だが、十分目覚めていなさい。あなたのローブがあなたのサニヤスではない、あなたのマーラがあなたのサニヤスではない、あなたの新しい名前があなたのサニヤスではないということに。
名前がないとき、あなたが無名になるとき、そこにサニヤスがあるだろう。そうなったら、そこにはルールはない。そのとき、あなたはとても普通で、誰の目にも留らなくなる。
──Osho, A Bird on the Wing, Number 9
あなたはどこにも属していない──それが事実(リアリティ)である。どこかに属するというすべての渇望は虚偽だ。属するというまさにその観念が組織をつくりだし、属するというまさにその観念が教会をつくりだす──なぜならあなたは独り“alone”になれず、あなたは群集(グループ)のどこかに紛れ込みたがる。サニヤシンとは独り在ること“aloneness”を受け容れた人のことだ。それは根元的なことであり、そこに沈溺することはありえない。サニヤシンになることであなたはある組織の一部になるわけではない──これは組織では全くない。サニヤシンになることで、ある確かな事実を受け容れるだけの充分な勇気を持つということになる。それは、人は独りで存在しているということだ。そして、それは非常に根元的なことであり、それからは逃れようがない。それは死と同じように根元的なことだ。実際に、死とはあなたは独りだった、そして今あなたは独りだ、という知らせをもたらす以外の何ものでもない。
──Osho, The Divine Melody, Number 10
だからそれは絶対的に必要だった。他に私の人びとをひきつける手段はなかった。すべての人がすでに分離されている。そこは開かれた世界ではなく、ある人はキリスト教徒で、ある人はヒンドゥー教徒で、ある人はイスラム教徒だ。何者でもない人を見つけるのは非常に難しい。私はこれらの閉ざされた群集から私の人びとを見つけなければならなかった。それゆえ、これらの群集に入るために私は、彼らの言語で語らなければならなかった。徐々に、徐々に、私は彼らの言語を落とした。それに応じて、私のメッセージはしだいに明確になり、そして私は、彼らの言語をゆっくりと落とした。
私がサニヤスを与えた後、3年の間隔を置いた。それにより、誰でも私から去りたい人は去ることができるように──なぜなら、私は誰の人生にも干渉したくないからだ。もし、私にあなたの生を高めることができるなら、素晴らしい。私があなたとあなたの実存を高められないなら、あなたは私から去るほうがいいだろう。
──Osho, From Personality to Individuality, Number 14
私はサニヤス・ムーブメントをやめたわけではない。私はそれが宗教になるのを止めたのだ。ムーブメントは流動だ。それがムーブメントの意味だ──それは動いている、それは成長している。
だが、宗教は死んでいる──それは動くのをやめてしまった、それは成長するのをやめてしまった。それは死んでいる。それにふさわしい唯一の場所は火葬場だ。
聖職者はみんな、男であれ女であれ、死んだ宗教を望んでいる。なぜなら、それは予測できるからだ。すべてのものはただ教理問答のようなものだ。そこには何の見解も、何の進化も、何の成長もない。キリスト教を見てみなさい、2千年が過ぎ去った──彼らはイエスキリストより一インチでも先に進んだろうか?仏陀以来25世紀が過ぎた──仏教徒たちは一歩ですらそれより先に進んだだろうか?これは成長を破壊している、進化を破壊している。
今、私は私の人びとにオープンで、生き生きとして、成長し続け、いつも新鮮で新しくあり続けて欲しい。それは新しい類の現象、宗教性の存続である。それには何のレッテルもついていない、なぜならすべてのレッテルは完全な終止符だからだ。そして、私は終止符が好きではない、セミコロンでさえ好きではない。生は常に流れ続けている……。
私はマーラを撤回した。それはインドにおいては大きな意味を持つ。なぜなら、インドでは赤い衣服とマーラはサニヤシンの象徴として、全ての宗教により何千年もの間使われてきたからだ。私はその伝統的なサニヤスの概念を破壊したかった。というのも、伝統的なサニヤシンは禁欲者であらねばならず、女性に触れてはならず、女性と話をしてもならない。サニヤシンは家庭にいることはできず、寺に滞在しなければならない。彼は一日に一度しか食べてはならないし、彼は絶えず何度も何度も断食しなければならない。彼は自分自身を苦しめなければならない。これは病気だ。
私はこのイメージを破壊したかった。だから私は赤い色を選んだ。そして私はインド国内だけで30万人に近いサニヤシンを抱えていた。私のサニヤシンたちは伝統的なサニヤシンたちの間に強烈なトラブルを引き起こした。なぜなら、誰がどこに属するかを知る方法はなかったからだ。私のサニヤシンたちが道を歩いていると、彼らが禁欲者でないことを、彼らにガールフレンドが居ることを知らずに、、人々は彼らの足に触れる。彼らは一日に2度食べる、何であれ一番いいものを食べる──それがイタリア料理でも中華料理でも日本料理でも、かまわない。これらの人びとは21世紀に属している。そして古いサニヤシンたちは、私が彼らのイメージを壊したことでとても憤慨した。
私たちが西洋にやって来て、今では赤い衣服もマーラも必要ではない。というのも、西洋ではそれらが宗教のシンボルだった試しはないからだ。それらはその用途をインドで終えた。それらは次のように主張する。サニヤシンであっても妻とともにいられるし、子どもも持てる。社会の寄生虫である必要もなく、働くことも、創造することもでき、稼ぐこともできる。そして、崇拝される必要もないと……。
より厳密に言えば、あなたには今や外側の象徴はまったく何もない。そこに残されたものは宗教性の核心だけであり、あなただけにできる内なる旅である。私があなたの代わりにそれをやることはできない。誰もあなたの代わりにやることはできない。
だから今や、そこに残るのは本質的な質のみ、宗教性のもっとも根元的な質だ。それは瞑想だ……。
だから、あなたには外側の象徴はもはや何もない。それは素晴らしいことである。もし、あなたがサニヤシンになりたいなら、あなたが覚えておくべきことはひとつだけだ。それは、いかにして観照するという訓練のなかに入るかということだ。さもないと、赤い衣服とマーラを身に着けたことだけで、あなたはサニヤシンなのだと完全に満足してしまう可能性がある。そうではない。衣服が人を変えるわけではないし、またマーラが誰かに変容を起こすこともない。しかし、あなたは自分自身を欺くことができる。
今や私はあなたからすべてを取り去り、ただひとつのシンプルなものを残そうとしている。あなたはごまかすことができない。それをやるかやらないかのどちらかだ。それをやらなければ、あなたはサニヤシンではない。だから、ムーブメントはもっとも純粋な状態、もっとも本質的な段階にまで達した。それは、落とされてしまったのではない。
──Osho, From Bondage to Freedom, Number 17
私はあなたにすべてのゲームを落としてほしい。世間的なゲーム、スピリチュアルなゲーム、全人類が今まで演じてきたゲームを落としてほしい。これらのゲームはあなたを知恵遅れにし続ける。これらのゲームがあなたを意識の中に、あなたの究極の開花へと、成長していくことを妨げている。私はあなたを妨げているこのすべてのガラクタを切り離したい。
私はあなたを独りのまま、完全に独りのままにおいておきたい。そうすればあなたは誰の助けも得ることはできない。あなたはどんな預言者にしがみつくこともできない。あなたは仏陀があなたを助けてくれるだろうとは考えられなくなる。独り、全くの独りにされる。それによって、あなたはあなたの最も内側の中心を見つけることになる。
他にやり方はない、どこへも行くところはない、助言者も、教師も、師(マスター)もいない。それは困難で、過酷に見えるが、私はあなたを愛しているからそれをする。そして、それをやらなかった人々は全然あなたを愛していなかったのだ。彼らは自分自身を愛していて、彼ら自身の周りに大きな群集を集めたかった。その群集が大きければ大きいほど、彼らのエゴもより栄養を与えられたと感じる。
だから、私は光明さえ最後のゲームと呼んだわけだ。それを早く落とすほど、そのほうがいい。ただ単に在ることができないのかね?不必要にあちこちへと忙しく動きまわるのかね? あなたは存在があなたにそうあってほしいものである。ただくつろぎなさい。
──Osho, Om Mani Padme Hum, Number 9
あなたが、サニヤシンになったことは、重要ではない。もし、あなたのサニヤスがあなたの内なる瞑想性を誘発することがなければ、それは何の変化も起こさないだろう。
瞑想なしには、そこにはサニヤスはない。
それは、ただあなたの純粋な意識が上昇することだ──ゆっくり、ゆっくり、低次元のものの重力を超えて動き──それが、あなたをサニヤシンにするだろう。
──Osho, The Great Pilgrimage, Number 11
私は誰にも僧侶になって欲しくはないし、私はあなた方に世間にいて欲しい。瞑想は24時間する必要はない。瞑想はちょっとした一瞥でしかない──そしてそれをあなたの仕事にもたらしなさい。ゆっくり、ゆっくり、その一瞥があなたの行動のなかで、あなたの沈黙のなかで、あなたの歌のなかで、あなたのダンスのなかで輝き始めるだろう。
24時間を浪費し、寄生虫になる必要はない。あなたが社会の寄生虫になるとき、あなたは社会に反逆することはできない。どのような迷信に対しても、一言も口をはさむことができない。
私の人びとはサニヤシンたちであると同時に、まったくの反逆者であり得る。彼らは誰にも依存していないからだ。彼らの瞑想は彼ら自身の個人的なでき事だ。
──Osho, The Buddha: The Emptiness of the Heart, Number 6
これから先、サニヤシンの意味は、ただ単にここで瞑想の技法をイニシエートされること、そしてその道に従うと、自分自身に約束することだ。
しかしそれは、個人であること、独りであることになるだろう。彼は彼自身に責任がある。それは集合体、信徒団にはならないだろう。
──Osho, The Last Testament, Vol. 3, Number 9
サニヤスとは、ただ単に、瞑想の道と喜びと歓喜の生を受け入れたことを意味している。それはあなたの生を至福にすることを受け入れている。だからサニヤスはまったく異なったものだ。サニヤシンたちは続いていくだろう。私はサニヤシンである外側の象徴をすべて落とした。彼らがそれらを取っておきたいなら、それは彼ら次第だ。私側では、落としてしまった。彼らにはマーラは必要ない。赤い服も必要ない。私が望んでいるのはただ……彼らへの私の助言は、もしあなたがサニヤシンなら、瞑想だけがあなたが携えるべき、唯一本質的なものだということだ。
──Osho, The Last Testament, Vol. 3, Number 13
私は、サニヤシンたちから、彼らを他と区別するあらゆるものを取り去った。私は彼らに語った。もはや赤い服を着る必要はない。すべての色が私たちのものだ。私の写真のついたマーラをつける必要はない。私はあなたの救世主や預言者やメッセンジャーではないのだから。
私は、あなたに差し出すどんな神も所有していない。私はあなたに、あなた自身を知るための科学を差し出すことができるだけだ。だから、あなたはただ理解しなければならない。私はただの友人であって、それ以上ではないことを。私はあなた方のなかのひとりでしかないのだから、崇拝する必要もなく、あなた自身を集合体の一部とみなす必要もない。あなた方はみな個人だ。
──Osho, The Last Testament, Vol. 3, Number 14
私は外側のあらゆるものを捨て去るために、一生懸命働きかけてきた。内側のみが、あなたが探求するために残されるように。さもないと、人間のマインドはとても未熟なのだ。それは外側の象徴にしがみつき始める。それが世界のすべての宗教で起こってきたことだ。
私は私の人びとに、それをはっきりと理解してもらいたい。あなたの服装、外側の規律、伝統によりあなたに授けられ、あなたがただ信じ受け入れてきたことは何であれ、助けにはならないだろうことを。
あなたのなかで革命を生み出すたったひとつのことは、マインドを超えて意識の世界へ入っていくことだ。それ以外に、宗教的であることはない。だが、まず始めるにあたって、あまりにも外側のことに取りつかれている世界では、私も、外側のことからサニヤスを始めなければならなかった。あなたの服装をオレンジに変え、マーラをさげ、瞑想する。しかし、その強調点は、瞑想だけにあった。
ところが、私が気づいたのは、人びとはとても簡単に服装を変えることはできても、マインドは変えられないということだ。彼らはマーラをさげることはできても、自らの意識のなかへは入って行けない。そして彼らは、オレンジの服を着て、マーラをさげ、新しい名前をもらったので、自分はサニヤシンになったと信じ始める。
サニヤスは、そんなに安あがりではない。だからこそ、時機がきて、あなた方は十分に成熟し、初期段階は終わったのだ。
私は私の人びとに、非本質的なことに夢中になって欲しくない。最初は、それは必要だった。今、何年もの間私の話を聴き、私を理解し、あなたはすべての外側の束縛から自由になる位置にきている。そしてあなたが内側へ向かったなら、初めて、あなたは真にサニヤシンになれる。
──Osho, The Last Testament, Vol. 6, Number 12
サニヤス・ムーブメントは、私のものではない。それはあなたたちのものでもない。私がここにいなかったときにも、それはすでにここにあった。私がここにいなくなっても、それはここにあり続けるだろう。
サニヤス・ムーブメントとは、ただ真理を探求する者たちのムーブメントを意味している。彼らはいつもここにいた。いつも真理の探求者たちの連なりがあった……。私はそれをサニヤスと呼ぶ。それは永遠だ。サナータン(sanatan)だ。それは私とは関係ない。何百万人もの人びとがそれに貢献してきた。私もまた自らの貢献を果たしてきた。
それはもっともっと豊かになり続けるだろう。私がいなくなっても、もっともっとたくさんの人びとがやって来て、それをさらに豊かにするだろう。私はいなくなるだろう。そのことで、サニヤス・ムーブメントが無くなるというわけではない。それは誰にも属していない……。
私はあなたに真理を与えることはできない。しかしあなたに月を示すことはできる……どうか、月を指し示す私の指に執着しないでほしい。この指は消えるだろう。月は残り、探求は続く。地球上にたったひとりでも人がいる限り、サニヤスの花々は咲き続けるだろう。
まず第一に、私はあなたに個としての存在を与えた全歴史上唯一の人間だ。いわゆるグルたちは、まさにその逆のことを行ってきた。彼らはあなたの個としての存在を奪ってきた。あなたが彼らに身を任せなければならないようになるように彼らは全努力をそそいだ。あなたの役割は、ただただ彼らの足に触れ、彼らの祝福を受け取ることだった。私の努力はまったく異なる。誰かの足に触れても、あなたはどんな祝福も受け取ることはできない。それどころか、あなたはその人をもっとエゴイスティックで、病んだ状態にしている。
エゴは彼の魂のガンだ。誰のことも病に落とし込まないように。慈悲深くありなさい。決して誰の足にも触れないように……。
すべての伝統、正統とみなされていること、迷信、信念を、あなたのマインドから取りさることに私は努力した。あなたがノーマインドの状態──沈黙の究極の状態、たった一つの思考すら動かない、あなたの意識の湖にはさざなみひとつ立たない──に到達できるように。
そして、すべてはあなたによって成されなければならない。私は『ただ私に従いなさい。私が救世主だ。私があなたを救う』とは言ってはいない。それは、すべてたわ言だ。あなた自身の他に、あなたを救える人は誰もいない。そして、スピリチュアルな自立こそが、自立と呼ぶに値する唯一の自立だ。
──Osho, The Last Testament, Vol. 6, Number 14
1989年、アカデミー・オブ・イニシエーションに送られたマーラについての最後のメッセージ
Oshoは、アカデミー・オブ・イニシエーションに、もうマーラを身につける必要はないと、メッセージを送ります。それは、サニヤスとは内側に向かうということであり、外側のものとは何の関わりもないということです。それについて動揺する人びとがいました。そして質問が再びOshoに持ち込まれ、アカデミーにもたらされた彼の応答は、「もしあなたがマーラを身につける必要があるのなら、家で瞑想するときだけにしなさい」─Osho
自分がブッダであることを覚えておくように──サマサティ
この言葉を最後に、OSHOはすべての講話に幕を降ろした。古い宗教が崩れ去る中、禅を全く新しい視点で捉え、人類の未来に向けて新しい地平を切り拓く。永遠に新鮮な真理である禅の真髄を、現代に甦らすためのOSHO最後の宣言。
「禅が知っていることは、一切の矛盾を深い調和の内に包含する広大な生だけだ。夜は昼と調和し、生は死と調和し、大地は空と調和し、存在は不在と調和する。この途方もない調和、この和合こそが。禅宣言の本質だ。これこそが何も否定せず、何も非難せず、ただ愛し、尊ぶ、唯一の生き方だ」─Osho
OSHO® ニルヴァーナ・タオ瞑想センター
OSHO® NIRVANA TAO Meditation Center
ラーダちひろ|Radha Chihiro
*RC will train OSHO® International Meditation Resort in Pune and plans to begin this in 5 years.

