現在の大量生産・大量消費の背景には、内面的貧しさゆえの外面的貪欲があり、ゆえに人類の未来はこの貪欲にどう対処するかにかかっていると言っても過言ではないでしょう。クリシュナムルティの先祖である古代インドのバラモンたちは、言わば欲望の水門をできるだけ閉じるようにしていたのですが、現代人はその水門をまさに全開にしてしまったのです。この締まりのない状態から抜け出すには、言うまでもないことですが、自分が置かれている状況を「観察し」、自分自身の内面の状態に「ありのままに気づく」ことが必要です。
そして「虚偽を虚偽と見、虚偽の中に真実を見、真実を真実と見る」ことが必要であり、そのためにクリシュナムルティは一種の消去法に基づいた否定的アプローチ、いわば「ネガティブ・ウエイ」とでも言うべきものに訴えます。そのエッセンスは次の言葉に簡潔に表わされています。
諸君の望まざる所有物や理想は何々であるかをみずから見出せ。自分が何を望まぬかを知り、それを消去することによって、諸君は精神の重荷を下ろすであろう。そのときはじめて、精神はそうなってもなおかつ肝要なものを理解するであろう。
信ずるな。ただし、諸君自身をも含むいかなるものも。諸君の不信とともにぎりぎりまで歩め。そうすれば、疑いえたあらゆるものは虚偽であったこと、そして最も激しい懐疑の炎に耐えうるもののみが真理であることを見出すであろう。なぜなら、そうなってもなおかつ残るものが、懐疑を自己浄化過程とする「生」に他ならないからである。
この、烈々たる、めらめらと燃え上がるような「懐疑あるいは否定の炎」こそは彼の本質であり、そしてそれは彼を生涯にわたる「反逆者」にしたのです──ただし「虚偽」に対しての。そのことは、1929年におこなわれた有名な『星の教団』解散宣言の中で、団員たちに向けて放った次の言葉が如実に物語っています。
虚偽と非本質的なものにその基盤を置いているすべての社会から、諸君はどれだけ自由であり、どれほどはみ出し、そしてそのような社会に対してどの程度危険な存在になっているだろうか?
あるいはまた、インドでの教師との討論中の次のような発言(『英知の教育』春秋社)。
「否定」という言葉の意味をご存じですか? 過去を否定する、ヒンドゥー教徒であることを否定するとはどういう意味なのでしょう? 否定には真の否定と偽りの否定があります。動機のある否定は偽りの否定です。目的を持つ否定、意図的な否定、未来をめざした否定は否定ではないのです。もし、より多くのものを得るために否定するなら、それは否定とは言えません。これに対して、なんの動機も伴わない否定があるのです。否定し、その結果将来自分に何が起こるか関知しないこと──それが真の否定なのです。ヒンドゥー教徒であることを否定し、どんな組織に属することも否定し、特定のいかなる教義や信条も否定し、まさにその否定によって自分自身をすっかり不安定にさせること、そのような否定をご存じですか? 未来に何が起こるか関知せずに、既知のものを否定することができますか?
この、虚偽あるいは非本質的なものの否定はクリシュナムルティの終始一貫した姿勢となっています。そこで彼は、例えば、「真理とは何か」と問うかわりに、「何が真理ではないか」と問い、「虚偽を虚偽と見、虚偽の中に真理を見、真理を真理と見よ」と言い、真理を発見するためにはまず、虚偽を虚偽と見抜くことが先決であると強調します。あるいは愛とは何かと問うかわりに、何が愛ではないかと問い、そして「嫉妬は愛の現れですか、そもそもちっぽけなあなたの自我には愛の余地があると思いますか?」と言うのです。
そして私たちがこの虚偽の否定のプロセスをたどり続けていくと、そこにはいい知れない「解放感」とそれに伴う歓喜がわき起こるでしょう。こうして私たちは着実に重荷を降ろし、さわやかな風が吹き渡る「本然の生」へと近づいていくのです。