西洋フェミニズムの動きから派生して、タントラがセクシュアルヒーリングとして使用されてしまったため、本来の価値が隠されてしまっている。欧米ではよく誤解されることだが、実はタントラは謎めいたものではない。タントラは、誰もが使える非常に効果的なツール、すなわち想像力(イメージの力)を活用する。仏教の教義の基礎をしっかりと固めた高度な修行者にとっては、タントラは全ての衆生にとって最大の利益となる境地、すなわち成仏に達するための近道といえる。
シャイヴィズム
インドにおけるタントラは、ヴェーダの真髄を別の形で体系化した哲学(形而上学)で、「シャイヴィズム」と呼ばれ、シヴァを絶対的存在として成り立っている。この哲学はこの世の摂理…人間そして全ての根源の意味を示し、どのように自分らしく、己のdharma/本来の自分に沿って生きて行くかという人間性を実践的に提示するものである。このシャイヴィズムの中でもヨーガアーサナ等を実践的に取り込んでいる流派は、カウラと称される。
ヴェーダ聖典の真髄を綴ったタントラは、人間性の意義を教示している。過去数世紀、私達は自分以外全ての対象からの離脱や自己内での心と体の分離という意識を刻み続けてきた。「自己」と「他」を分離する傾向は、様々な社会的摩擦や心理的問題を作り上げている。タントラは、この概念を捨てることを提唱する。全てのものの中に必要性と価値を見いだすことで、不安、怒り、嫌悪、差別など心の混乱が消え、自由という感覚のもとで人間の質が向上し、人間関係や社会に価値ある実体性を与える。伝統的でありながら時代を超越したこの教えは、現代の私達の精神的成長に大いに役立つ。不必要な既成概念や誤った情報に流されることなく、真実を見据えて自分らしく生きるヒントがここにある。
多くの精神的な教えを正しい角度から観察すれば、それらはすべて明らかに霊性・人間性の高揚を語っている。神や仏が関係する概念は、仙人のような生活を招くというイメージを連想させるが、真理は実はその真逆にある。人間として人と心から交流して、毎日深く生きること。人間存在の価値を愛でること。人間関係、社会、そして人間性に価値ある実体を与えること。
仏性|Buddha-nature factors
サンスクリット語の「タントラ(tantra)」という言葉は「伸ばされたもの、広げられたもの」を意味するが、二重の意味を持つ。一つ目は、機織り機の経糸のように伸ばされているという意味で、つまりタントラ修行はスートラ修行を織り合わせるための経糸だということ。二つ目は、始まりもなく終わりもなく、いつの時も延々と続いてゆく、無限の相続(連続体)という意味で、つまり私たちの心相続(心の連続体)、個人の主観的な生の経験の連続体を意味する。相続には身体を持つこと、発話(コミュニケーションの手段)、精神、活動、そして自分自身と他人に対する理解や配慮(自己保存と種の保存の本能)などの様々な功徳(良い性質)が含まれている。
私たちは皆、その形や発達程度は様々だが、どの転生においてもこれらの功徳を持っている。このような変化する要素と心相続の空(心相続がいかなる不可能な方法でも存在ないこと)、また変化する要素が刺激を受けて発展することがあるということ、これらは私たちの「仏性 (Buddha-nature factors)」と呼ばれる。この仏性が永遠の連続体、すなわち相続である「タントラ」を構成しているのである。
タントラ修行の基礎
タントラは悟りに達するための大乗仏教の発展的な修行である。タントラを実践するには、ラムリム(道次第)の教えの段階通り、全てのスートラ修行の基礎をしっかりと固めることが前提となる。中でも最も重要なのは以下のもの:
- 安全な方向性(帰依)
- 全ての苦しみとその原因から自由になる決意(出離)
- 厳格な倫理的自己鍛錬(持戒)
- 全ての衆生のために悟りを求める心(菩提心)
- 彼岸に達する意思、到彼岸(六波羅蜜)、特に:
- 集中(禅定)
- 空(虚無)をはっきりと認識していること(般若)
これらの全てを学び、訓練することでしっかりと身に着けたうえで、集中的な前行(ngondro, ンゴンドロ、予備修行)を終えて初めてタントラ修行を開始することができる。前行ではタントラ修行を成功に導くため、潜在するネガティヴな要素を浄化し、ポジティヴな力を蓄える。通常のスートラだけでは悟りに達するのに膨大な時間がかかってしまうが、菩提心を強く持った慈悲深い修行者にとってこれは耐えがたいこと。それゆえ彼らは、全てのスートラ修行を組み合わせた、非常に効率的で総体的な修行方法であるタントラ修行を志す。
基・道・果のタントラ
私たちの相続には基・道・果の三段階がある。
- 基(土台の段階)のタントラは、無限に繰り返される転生(輪廻)において一般的な、始まりのない相続(連続体)である。この相続は、自分や他の衆生、そして他の全てのものがいかにして存在するかに関する無明(無知)と、無明がもたらす心を乱す感情やカルマによって引き起こされる衝動的な言動によってもたらされる。このような混乱を取り除く(浄化する)ことがなければ、様々な苦しみに満ちた相続にこの混乱が加わって、いつまでもこの段階にとどまり続ける。それ故、基のタントラは不浄であると見なされる。
- 果(結果の段階)のタントラは完全に浄化された仏性の終わりのない相続で、完全に悟りを開いた仏の身体、発話、心、活動、功徳という形をとる。
- 道(修行道の段階)のタントラは部分的に浄化された相続で、心相続を基の段階から果の段階に引き上げる中間段階の働きをする。修行者は、自らの仏性(身体、発話、その他)がすでに仏のものとなっている様を、瞑想の本尊(イダム、yidam)の姿で観想して、果の段階に達そうと努める。このとき、観想しているのはまだ自分が達していない段階で、自らの仏性が完全に浄化されたときに達することができるということをしっかりと認識しなければならない。自分を本尊の姿で観想することから、タントラ修行は「果乗(結果の乗り物)」と呼ばれる。これから達そうとしている結果と同じ方法で修行を行うからである。
道のタントラ修行で自分をその姿で観想する本尊の多くは、たくさんの顔や腕、脚を持っている。多くの手足はタントラの経糸。私たちはこれらが象徴するものを織り上げていくのである。これらの身体的特徴は、それぞれラムリム(道次第)に関するスートラの教えの様々な側面を表している。例えば、六本の腕を持つということは、
- 六波羅蜜-布施波羅蜜(寛容)
- 持戒波羅蜜(倫理的自律)
- 忍辱波羅蜜(忍耐)
- 精進波羅蜜(根気)
- 禅定波羅蜜(精神的安定)
- 般若波羅蜜(最高の智慧)
これらを全て備えていることを表す。六本の腕という姿で六波羅蜜を視覚的に観想すると、ただ漠然と意識するよりもはるかに容易に、全ての波羅蜜を同時に心に留めておくことができる。
タントラ修行の前行
多くの手足を持つ本尊の姿で自分を観想するのと並行して、瞑想中だけでなく日常生活においても修行に励み、ポジティヴな力と深い気づきのネットワーク(福智二資糧)を築いてゆく。愛と慈悲をもって他の衆生を助け、関わりのある全ての衆生やものごとの空に意識を向ける。これらの二つのネットワークもまた仏性であり、これらのネットワークの強さによって、私たちの他の仏性が基・道・果の全ての段階で働くようになる。このため、タントラ修行に先立って五体投地や金剛薩埵の浄化などの前行(準備の修行)に取り組み、二つのネットワークの強化を始める。
タントラは精神的な原子爆弾
タントラとは性的な行為や神秘的な儀式ではなく、実際には私たちの可能性を最大限発揮するための非常に高度で複雑な体系を提供するもの。タントラ修行は決して軽んじられるべきものではない。タントラの儀式に積極的に参加するとは、残りの人生を通じて誓いを守り通すことである。したがって、タントラ修行の開始は、仏教の教義の基礎(特に全ての存在に対する普遍的な愛と慈悲、そして空の理解)をしっかりと固めてからといえる。
発展的な修行者たちにとってタントラは精神的な原子爆弾である。正しく使えばエゴや自己愛を打ち砕いて速やかに悟りに達し、全ての衆生に末永く恩恵をもたらす素晴らしい存在になることができるのだ。