世俗で生きながら悟る

 

 新約聖書では、「天にましますわれらが父」と教えられている──人間から離れて天国に住んでいる神である。われわれは地上に住んでおり、そして彼は天国に住んでいる。さらに進むと、われわれは、彼は自然に内在する神であるという教えを見出す。彼は天にまします神であるだけでなく、地上の神でもあるのだ。彼は、われわれの内なる神である。ヒンドゥー哲学では、同じくわれわれへの神の接近の段階が見出される。が、われわれはそこでとどまらない。非二元的な段階──その中で人間は、自分が崇めていた神が天なる、また地上なる神であるだけでなく、「私とわが父はひとつである」と悟る–というものがある。彼は自分の魂の中で、彼は神自身であり、ただより低い現れであるにすぎないと悟るのである。自分の内で真実なるもののすべては彼であり、彼の内で真実なるもののすべては私であると。神と人との間の深淵はこのようにして超えられる。かくしてわれわれは、神を知ることによって、いかにして天の王国がわれわれの内にあるかを見出すのである。

 第一のあるいは二元的な段階では、人間は自分が小さい個的な霊魂としてのジョン、ジェームズまたはトムだと知り、そして言う。「自分は永久にジョン、ジェームズまたはトムのままであって、けっして他のものにはなるまい」。それよりは、人殺しがやって来て、「おれはこのままずっと人殺しでいよう」と言うほうがまだましである。が、時が経つにつれて、トムは消え失せて、本来の純粋なアダムへと戻る。

 「心の清き者は幸いなり、なぜなら彼らは神を見るであろうから」。われわれは神を見ることができるだろうか? 無論、否である。われわれは神を知ることができるだろうか? 無論、否である。もし神が知られうるなら、彼はもはや神ではないであろう。知識には限界がある。が、私とわが父とはひとつである。私は自分の霊魂の中に真実在を見出す。これらの観念はいくつかの宗教においては表現されているが、しかし他の宗教ではただ暗示されているだけだ。いくつかの宗教では、それらは生国から追放された。キリストの教えは、今やこの国ではほとんど理解されていない。失礼ながら、それらはけっして十分に理解されずにきたと私はあえて申し上げる。

 純粋および完全に至るには、異なった成長の段階が絶対に必要である。多種多様な宗教体系は、根底においては同じ観念の上に立脚している。イエスは、天の王国はあなた方の内にあると言う。再び、彼は「天にましますわれらが父」と言う。この二つの発言をどう和解させたらいいだろう? 以下のように。彼が後者を言ったとき、彼は無学な大衆、宗教について教わっていなかった大衆に話しかけていたのだ。彼らに向かって、彼ら自身の言語で語りかけることが必要だったのである。大衆は具体的な観念、何か五感が把握できるものを欲する。

──スワミ・ヴィヴェーカーナンダ

 

 重要なのはイエスの言葉の持つ二重性。例えば「秘教」とは「公教」に対して使われる言葉であり、後者が「大衆向け」なのに対し、前者はより奥深い宗教の「真価を認め、理解する内面的な力を備えた人々向け」のものであり、そしてキリスト教の場合、その「秘教的な部分は公教的な側面からだいたい引き離されてきたが、しかし福音書中には無傷で残っている──見る目と聴く耳を持ったすべての人のために。

 福音書の中心テーマは「再生 re-birth」と呼ばれる内的進化の可能性であり、その内的進化とは実は理解(力)の発達を意味する。そして、もしこの地上に生きている人間がこの主題についての明確な教えに接するなら、明確な内的進化を遂げることができると福音書は教える。この内的進化は心理的である。より「理解力ある」人になることは心理的発達である。それは思考、感情、行為(すなわち理解)の領域にある。そして、地上の人間は理解における明確な内的進化を遂げることができるという教えに基づいた真の心理学、それこそが福音書の本当のねらいなのである。

 福音書は徹頭徹尾この自己進化の可能性についてのものであり、その意味でそれは心理学的文書なのである。その中心的観念は、人間は内的に明確な成長が可能な種子だというものである。今あるものとしての人間は不完全であり、未完成であるが、彼は自分自身の進化をもたらすことができる。もしそうしたくなければ、そうする必要はない。そのときは彼は草と呼ばれる…つまり、無用なものとして焼き払われる。かと言って、人間に内的進化の教えを強制的に与えることはできない。つまり、これはあくまでも自薦の課題なのである。

 ところで、大変重要なことは「イエス自身、内的成長と進化を遂げなければならなかった」ということを把握することである。彼は生まれながらに完璧だったのではない。彼は最初からヒーリングの力を備えていたわけではない。事実彼はある箇所で、ある種の病いを癒すためには、多くの祈りと断食が必要だと言っている。いずれにせよ、彼も試行錯誤をしつつすべての進化段階を通過しなければならなかったのである。

 「汝の隣人を愛せよ」──このようなメンタリティーをいかにして実現すべきか。日常の自分自身の営みを修行とすることによって。現代社会や日々の日常生活の中で修行することにこそ意味がある。強い悟りは、目の前の関係性から、己の空虚に直面することができる精神性を養うことからくる。すなわち、世俗で生きながら悟るのだ(絶対的自由へ)。

 

Radha Chihiro
AHIMSA / Nonviolence Raw Vegan, Catharsis Transmuter, Jnana Yogi, Meditator
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