社会は大きな仕事をやってのけた。教育、文化、そして文化育成機関、親、先生たち──彼らは大きな仕事をやってのけた。エクスタティックな生き物から惨めな生き物をつくった。子どもはみな、生まれつきエクスタティックだ。子どもはみな、生まれつき神だ。ところが、人はみな、狂人として死ぬ。
自分が子どもだったころに戻らない限り、それを取り戻さない限り、あなたは私が話している白い雲にはなれないだろう。これがあなたの仕事のすべて、サダナのすべてだ──どうすれば子どもの頃の状態に復帰できるのか、どうすればそれを取り戻せるのか。もしあなたが再び子どもになれたら、そこに惨めさはない。
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Q:私たちはいつも、不幸であることを選んでいるのではないでしょうか? それが選んだことだと気づいていないのではないでしょうか?
Osho:これは人間のもっとも複雑な問題のひとつだ。それはとても深く掘り下げられなければならないし、それは理論上のことではない──それはあなたに関することだ。それはみんながやっていることだ……つねに間違ったことを選んでいる、つねに悲しいこと、憂鬱なこと、惨めなことを選んでいる。それには深い理由があるにちがいないし、たしかにある。
まず最初に、人間はどのように育てられるのか、それが決定的な役割を果たしている。もしあなたが不幸だったら、そのことであなたは何かを手に入れる、かならず手に入れる。もしあなたが幸せだったら、あなたはかならず失う。
まさに最初から、気がつく子どもは違いを感じはじめる。自分が幸せでなければ、いつでもみんなが思いやってくれる、同情が得られる。誰もが愛情を注いでくれる、愛が得られる。そして、それだけではない、幸せでないときはいつも、誰もが気づかってくれる、彼は注目を集める。注目されることは、エゴにとって食べ物のような働きをする。アルコールにそっくりの刺激だ。それがあなたにエネルギーを与える。自分は大したものだ、とあなたは感じる。注目を集める必要性がこれほど大きいのは、欲望がこれほど強いのは、そのためだ。
もしみんながあなたを見ていたら、あなたは重要になる。誰もあなたを見ていなかったら、あなたはまるで自分がそこにいないかのように、自分はもはやいなくて、存在しないもののように感じる。あなたを見ている人たちが、あなたのことを気づかっている人たちが、あなたにエネルギーを与えるのだ。エゴは関わりのなかに存在する。人びとがあなたに注目すればするほど、あなたは多くのエゴを獲得する。もし誰もあなたを見なければ、エゴは溶けてなくなる。もしみんながあなたのことを完全に忘れ去ったら、エゴは存在できないだろう? 自分はいるのだと、どうして感じられるかね? だからこそ、社交界、交友団体、クラブが必要なのだ。世界中にクラブがある──「ロータリー」「ライオンズ」「フリーメーソン」……無数のクラブや交友団体。これらの交友団体やクラブは、他の方法では注目を得られない人たちを注目の的にする、ただそれだけのために存在する。
一国の大統領になるのはむずかしい。自治体の長になるのはむずかしい。「ライオンズ・クラブ」の会長になるほうが簡単だ。それならば、特定のグループがあなたに注目してくれる。あなたはとても重要だ──何もしていなくても! 「ライオンズ・クラブ」、「ロータリー・クラブ」……まったく何もしていないのに、それでも彼らは、自分たちは何かしら重要なのだと感じる。会長は次々と変わる、この年は誰、また次の年は、と。誰もが注目される。それは相互協定であり、誰もが自分は重要だと感じる。
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まさに最初から、子どもは政治的手段を学ぶ。その政治的手段とは、不幸に見えれば、同情が得られる、誰もが気にしてくれるということだ。具合が悪そうなら、あなたは大切な人になる。病気の子どもは独裁者になる。家族全体が彼に従わなければならない──何であれ、彼の言うことがルールだ。
その子が幸せであれば、誰も彼の言うことに耳を貸さない。健康だったら、彼のことは誰も気づかわない。何の問題もなければ、誰も気にしない。まさに最初から、私たちは惨めなこと、悲しいこと、悲観的なこと、生の暗い面を選びはじめる。それがひとつ。
それに関連する二番目のこと──あなたが幸せなときはいつも、あなたが喜んでいるときはいつも、あなたがエクスタティックで至福に満ちているときはいつも、みんながあなたを嫉妬する。嫉妬とは、誰もが敵意を持っている、誰ひとり親しみを感じていないということだ。その瞬間は、誰もが敵だ。だからあなたは、みんなを敵に回すほどにはエクスタティックにならないようにすることを学んだのだ──自分の至福を表わさないように、笑わないように。
笑うときの人びとをよく見てごらん。彼らは計算しつくした上で笑う。それは腹からの笑いではない、彼らの存在の深みそのものからこみあげてはいない。彼らは、まずあなたを見てから判断する……それから、笑う。そして彼らが笑うのは、ある程度まで、あなたが大目に見てくれるところまで、気分を害さない程度まで、誰も嫉妬しない程度までだ。
私たちの微笑みでさえ政治的なものだ。笑いは消えた。至福はまったく知られていないものになり、エクスタティックになるのはほとんど不可能だ。なぜなら、それは許されていないからだ。もしあなたが惨めなら、誰もあなたのことを狂っているとは思わないだろう。もしあなたがエクスタティックになって、踊っていたら、誰もがあなたのことを狂っていると思うだろう。踊りは拒絶され、歌うことは受け容れられない。至福に満ちた人……どこかおかしくなってしまったのだと私たちは思う。
これはいったいどういうタイプの社会なのか? ある人が惨めであれば、すべてオーケーだ。社会全体が多かれ少なかれ惨めなのだから、彼は違和感がない。彼はメンバーだ、私たちの仲間だ。もしある人がエクスタティックになったら、彼は狂った、正気の沙汰じゃないと私たちは思う。彼は仲間としてふさわしくない……そして、私たちは嫉妬する。
嫉妬ゆえに、私たちは彼を非難する。嫉妬ゆえに、私たちはあらゆる手を尽くして、彼を前の状態に戻そうとするだろう。その前の状態を、私たちは正常と呼ぶ。精神分析医が助けて、精神科医が助けて、その人を正常な惨めさへと連れ戻すだろう。
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西洋では、社会全体が幻覚剤に反対の立場にまわっている。法、国家、政府、法律専門家、最高裁判所、立法者、聖職者、法王たち……誰もが反対の立場をとっている。彼らは実際には、幻覚剤に反対なのではない。彼らは人びとがエクスタティックな状態になることに反対なのだ。彼らはアルコールには反対しない、ドラッグであっても他のものには反対しないが、幻覚剤には反対だ。幻覚剤はあなたのなかに化学的な変化を生みだすことができるからだ。そうなると、社会があなたの周りにつくりだした硬い皮、惨めさへの閉じ込めが破られかねない、現状打破がありうる。あなたはそれから抜けだして、たとえわずかの間であろうとも、エクスタティックな状態になることができる。
社会はエクスタシーを許すことができない。エクスタシーは最大の革命だ。繰り返そう、エクスタシーは最大の革命だ。もし人びとがエクスタティックになったら、社会全体が変わらざるをえない。なぜなら、この社会は惨めさが礎になっているからだ。
もし人びとが至福に満ちていたら、彼らを戦争に行かせることはできない──ベトナムに、あるいはエジプトに、あるいはイスラエルに。それはできない。至福に満ちている人はただ笑って言うだろう、「なんとばかげたことを!」
もし人びとが至福に満ちていたら、彼らを金の亡者にすることはできない。彼らはただ金を貯めるだけで一生を無駄にはしない。彼らから見れば、ただ自分の生涯を、死に金と引き換えにしつづけ、死を目前にして金を貯めつづけ、自分の生涯を台なしにする人は、狂っているように思える。そして、彼らが死んだとき、その金はそこにある。これはまさに狂気の沙汰だ! だが、この狂気は、あなたがエクスタティックでなければわからない。
もし人びとがエクスタティックだったら、この社会のパターン全体が変わらざるをえない。この社会は惨めさの上に存在している。この社会にとって、惨めさは大きな投資だ。だから私たちは、子どもたちを躾ける……まさに最初から、私たちは惨めさへの偏向を生みだす。だからこそ、彼らはつねに惨めさを選ぶのだ。
朝、誰でも選ぶことができる。そして、朝だけでなく、瞬間ごとに、惨めでいるか幸せでいるかを選ぶことができる。あなたが惨めでいることをつねに選ぶのは、それに投資しているからだ。それが習慣に、パターンになっていて、あなたはつねにそうしてきたから、かならず惨めでいることを選ぶ。あなたはそうすることがうまくなった、それが普通のやり方になっている。選ばなければならないとなったら、あなたのマインドは即座に惨めさに流れる。
惨めさは下り坂のように思える、エクスタシーは上り坂のように思える。エクスタシーは行きつくのがとても難しそうだが、そうではない。実際はまったく逆だ──エクスタシーは下り坂、惨めさは上り坂だ。惨めさは達成するのがひじょうにむずかしい。だが、あなたはそれを達成した、あなたは不可能なことをやってのけたのだ……なぜなら、惨めさはとても自然に反しているからだ。誰も惨めでいたくないのに、誰もが惨めだ。
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社会は大きな仕事をやってのけた。教育、文化、そして文化育成機関、親、先生たち──彼らは大きな仕事をやってのけた。エクスタティックな生き物から惨めな生き物をつくった。子どもはみな、生まれつきエクスタティックだ。子どもはみな、生まれつき神だ。ところが、人はみな、狂人として死ぬ。
自分が子どもだったころに戻らない限り、それを取り戻さない限り、あなたは私が話している白い雲にはなれないだろう。これがあなたの仕事のすべて、サダナのすべてだ──どうすれば子どもの頃の状態に復帰できるのか、どうすればそれを取り戻せるのか。もしあなたが再び子どもになれたら、そこに惨めさはない。
私は、子どもには惨めなときがないと言っているのではない──ある。だが、それでも、惨めさはない。これを理解しようとしてごらん。
子どもは惨めになることもあり得る。不幸に、一瞬のうちにすさまじく不幸になり得る。だが、彼はあまりにもその不幸になりきり、あまりにもその不幸と一体になるために、区別がつかない。不幸から離れている子どもはそこにいない。自分の不幸を離れたもの、分かれたものとして見てはいない。子どもが不幸そのものなのだ──それほど巻き込まれている。あなたが不幸と一体になったら、不幸は不幸ではない。もしあなたがそれほどそれと一体になったら、それすら独自の美しさをもつ。
だから、子どもを見てごらん──私が言っているのは、甘やかされていない子どもだ。もし彼が怒ったら、彼の全エネルギーが怒りになる。何ひとつ取っておかない、いっさい自制していない。彼は感情をかきたてられ、怒りになったのだ。それを操り、コントロールしている人はいない。マインドはない。子どもは怒りになった。怒っているのではなく、怒りになったのだ。そして、その美しさを、怒りの開花を見てごらん。子どもはけっして醜くは見えない。怒っていてさえも、美しく見える。彼はまさに、より激しく、より元気に、より活気に満ちて見える……今にも爆発しそうな火山だ。こんなに幼い子ども、ひじょうに大きなエネルギー、微小な原子のような存在──全宇宙とともに爆発する!
そして、この怒りの後、子どもは静かになる。この怒りの後、子どもはとても穏やかになる。この怒りの後、子どもはリラックスする。私たちは、その怒りに入り込んでいるのはとても惨めだと思うだろうが、子どもは惨めではない──彼はそれを楽しんだのだ。
もしあなたが何かと一体になったら、あなたは至福に満ちる。もしあなたが自分と何かを分けたら、たとえそれが幸福であっても、あなたは惨めになる。
だから、これが鍵だ。エゴとして分かれていることが、すべての惨めさの大本だ。生があなたに何をもたらそうとも、それと一体になり、それとともに流れ、自分がもはやいないほど、自分が失われるほどそれに強烈に、トータルに入っていれば、すべてが至福に満ちている。
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選ぶことはできる。だがあなたは、その選ぶことにすら気づかなくなった。あなたはあまりにもひっきりなしに間違った方を選んできていて、それがまったく無感覚な習慣になってしまったので、あなたはただ自動的にそれを選んでしまう。選択の余地はない。
油断せずにいるがいい。自分が惨めになる方を選んでいるときは、その都度、思い出しなさい──これは自分が選んだのだ、と。これを忘れずにいるだけでも、油断なくしているだけでも役に立つ。これは私が選んだのであって、その責任は私にあり、これは私が自分に対してしていることであり、これは私の行ないなのだ、と。すぐに、あなたは違いを感じるだろう。マインドの質が変わっているだろう。幸せに向かって進む方が、あなたにとっては楽だろう。
これは自分が選んだのだということが一度わかったら、事の全体がゲームになっている。そのときは、もし惨めになるのが好きであれば、惨めでいればいい。だが、いいかね、これはあなたが選んだことだから、ぐちをこぼしてはいけない。その責任は他の誰にもない。これはあなたのドラマだ。もしあなたがこのやり方が気に入っているのなら、惨めなやり方が気に入っているのなら、惨めに人生を過ごしていきたければ、そうであれば、これはあなたが選んだこと、あなたのゲームだ。あなたはそれで遊んでいるのだ。しっかり遊ぶがいい!
そのときは、惨めにならずにすむにはどうすればいいのか、と聞いて回らないことだ。それは不合理だ。幸せになる方法をマスターやグルたちに聞いて回ってはいけない。いわゆるグルたちが存在するのは、あなたがばかだからだ。あなたは自分で惨めさを作っておいて、それから、それをなくすにはどうすればいいのか、と他人に聞いて回る。そして、あなたは自分がやっていることに気をつけていないから、惨めさを作りつづける。まさにこの瞬間から、やってみるがいい、幸せで至福に満ちていようとしてごらん。
Osho – My Way: The Way of the White Clouds, Talk #3