夢の中にとどまるか、夢から覚めるか。

 

 普通の常識では、心身からなる私(主観)がそれとは独立な世界(客観)を見ているという主客二元論で世界のことが理解されているが、仏教では、「自心所現の幻境」といい、私たちが体験する世界は、自分の心が現出した夢幻の世界であると説いている。私たちは私たち自身が立ち上げた世界に独り住んでいるということになる。

 したがって、此岸でのよりよい適応を目指す世俗的マインドフルネスでは、あくまでも「夢」から覚めることなく(そもそもそれを夢だとは夢にも思わないから)、夢の中で幸せになるためにマインドフルになろうとする。それに対して、仏教的マインドフルネスは、夢から覚めるためにマインドフルであろうとする。仏教の立場からすれば、夢の中での問題の解決はどこまでも夢の中のことなので、最終的な解決ではないから、あくまでも夢から覚めることを勧めるのである。夢から覚めれば、夢の中の問題は解決するのではなく、問題 “自体が解消” する。

 このことに関して、下記のような母と子の小話がある。ある子どもが母親にこういう謎かけをした。「ねえ、おかあさん、こういう想像をしてみてよ。もしおかあさんが、十匹の獰猛なライオンに取り囲まれていて、誰も助けに来てくれないし、手に何の武器も持っていないとするよ。さあ、ここからライオンに食べられないで、助かるにはどうやったらいいと思う?」──母親はああでもないこうでもないと頭を絞って答えを見つけようとするが、いい策が浮かばない。そこで子どもにこう言った。「だめ、いい答えが見つからないわ。降参するから、教えてくれる?」──すると子どもがこう答えた。「うん、いいよ。僕なら想像するのをやめるけどね」。

   

   

 想像のなかで解決を探し続けるか、想像そのものをやめるか。この話のなかの子どものように「想像するのをやめる」ことを勧めているのが仏教だと言えるだろう。それに対して、「いや、想像をやめるというのは聖なる宗教の問題で、俗人のわたしにはできないから、その選択肢は採用しない」というのは愚かな態度といえるかもしれない。それは、宗教の問題だからといって回避することのできない、誰にとっても重要な「どう生きるか」という問題だからである。

 この「夢の中にとどまるか、夢から覚めるか」という問題は、世俗にいる者には無関係な「宗教的な問題」だから、世俗的な現場で応用されるマインドフルネスは問題にしなくてもいいというのはおかしなことではないだろうか?たとえそれが心理臨床の現場であろうが、ビジネスの現場であろうが、もうそろそろ、世俗の文脈においても、かつては宗教の問題だとして敬遠されてきた本質的な問題を、人の “ウェルビーイング” に直接関わるきわめて重要なこととしてとりあげ、きちんと位置付けるべき時がきているのではないだろうか?

 スピリチュアルなことがプラクティカルなことに、かつてはあの世的なことだったものがこの世の問題になりつつあるのが、あるいはならなければならないのが現代ではないか。

 

Radha Chihiro

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