アシュターヴァクラ・ギーター「師」

 

あなたの真我を愛しなさい
その本性は幸福、平和、輝き
本来の自己に目覚めなさい

そうすれば
すべての無明は
夢のように消え去る

世俗のものごとをたくわえることで
いったいどれほどの喜びを
得るというのか?
幸福を見いだしたいなら
すべてをあきらめなさい

義務感という苦悩が
灼熱の太陽のように
あなたの心を焼き焦がした

静寂の雨を浴びてごらん

その
やさしく降りそそぐ静けさの中で
あなたは幸福を見いだすだろう

世界とは無だ
それはただの概念にすぎない
ただ存在と非存在の本質だけは
けっして消え去らない
真我は決して変わらない

つねに満たされ
完全無欠で
選択や努力を要しない

それは身近にあり
しかも限りない

真我が知られれば
妄想はすべて消え去る
ヴェールが剥がされ
あなたははっきりと見る

あなたの悲しみは
晴らされたのだ

真我は自由だ
そして永遠に生きる
それ以外は
すべて想像にすぎない

これを理解するゆえに
子どものように師はふるまう

「あなたは神だ」

存在するものと存在しないもの
どちらも想像にすぎない
それを知って
ついに欲望から自由になるとき
いったい言うべきことや
するべきことが残されているだろうか?

「真我はすべてだ」

探求者がそれを知るとき
彼は静かになる。
彼はもはや
『私はこれだ
 私はあれではない』
と考えることはない

そのような想いは
消え去ったのだ

「彼は静かだ」

快楽も苦痛も
混乱も集中も
学習も無知もない

彼の本性は条件づけから自由だ
勝とうと負けようと
彼には何の違いもない

森林深くに独り在ろうと
世間に在ろうと
天上の神であろうと
ただの乞食であろうと
彼には何の違いもない

彼は二元性に縛られない
富や快楽
義務や識別も
彼には意味のないこと

何を成し遂げようと
成し遂げまいと
気にしない

この生で自由を見いだした探求者は
義務も欲望も心にとどめない
彼には何もすることがない
ただあるがままに生きるだけ

師は
欲望という境界を超えて生きる

妄想、はたまた世界
真理への瞑想
解脱そのもの
それが彼にとって
何だというのだろう?

あなたは世界を見る
だからそれを消し去ろうとする
だが、
師にはそんな必要がない

「欲望がないからだ」

彼は見ているが
何も見ないのだ

神を見たとき
あなたは神に瞑想する
『私は神だ』と言いながら

だが、
あなたに想念がないとき
ニというものはなく
ただ、
一なるものだけが存在することを
理解する

だとすれば
いったい誰が誰に
瞑想できるというのか?

心が迷い混乱したとき
あなたは精神集中を修練する
だが、
師がかき乱されることはない
彼には達成するべきことがない

いったい
成就しなければならないような
何が残されているというのだろう?

彼は普通の人のように振る舞う
だが、
内側ではまったく異なっている

彼は自己の内に
いかなる欠点も
いかなる混乱も
瞑想の必要性も見ない

彼は目覚め
満たされ
欲望から解き放たれている

彼は存在するわけでも
存在しないわけでもない
彼はいつも働いているように見える
だが、
彼は何もしていない

奮闘していようと
静かにしていようと
彼は決して乱されない

何であれ起こるにまかせ
自由にふるまう
そして彼は幸せだ

彼には欲望がない
彼は鎖を解き放って
雲の上を歩く

風に舞う木の葉のように
生から生へ
自由に舞い踊る

彼は世界の彼方へと消え去った
喜びや悲しみを超えて

彼の心はいつもさわやか
あたかも
身体がないかのように生きる
彼の心は清らか
真我の歓喜の中に在る

彼には
放棄したいものがなく
欠けているものもない

彼の心は本来「空」
彼はあるがままに生きる

彼は普通の人ではない
賞賛や非難は
彼には何の意味もない

「これをするのは身体であって
 私ではない
 私の本性は純粋だ」

この想いを胸に
何をしようと
彼は何もしていない
だが、
彼は知らぬふりをする

彼はこの生で自由を見いだした
だが、
彼は普通の人のようにふるまう

それでも彼は愚かではない
幸せに輝き
世界を楽しむ

気まぐれな心に疲れ果て
ついに彼は落ち着いた
彼は知ることも考えることもなく
聞くことも見ることもない

彼は心乱されず
瞑想もしない
束縛されることも
自由も求めない

彼は世界を見るが
それが幻であることを
知っている

彼は神のように生きる

たとえ静かにしていても
利己的な人の心はせわしい
たとえ忙しくしていても
無私無欲の人は静かだ

彼は自由だ

彼の心は
困難や快楽に揺るがない
行為や欲望や疑いから解放され
彼は静かに輝く

彼の心は
瞑想や行為のために
努力しない
彼の心は
意図せず瞑想し行為する

愚か者が真理を耳にすると
混乱する
賢い人がそれを聞くと
内側に向かう

彼は愚か者のように見える
だが、
彼は混乱しない

愚か者は
心の制御と集中を修練する
だが、
師は眠る人のように
自己の内に安らぎ
それ以外何もすることはないと
知っている

努力しようと静かにしていようと
愚か者が平和を見いだすことはない

だが、師は
ただ、ものごとをあるがままに知って
平和を見いだす

この世で
人はあらゆる道を探り続ける
だが、彼らは
愛すべき真我を見逃してしまう

目覚めていて
純粋で完全で
満ち足りた
世界を超えた
愛すべき真我を

愚か者は集中を修練しても
けっして自由を見いだせないだろう
だが、師が
しくじることは決してない

ただ、
ものごとをあるがままに
知っているから
彼は自己でいて
揺るぎない

愚か者は神になりたいと願うため
けっして神を見いだせない

師が、
神になりたいと願うことはない

「彼はすでに神なのだ」

愚か者は根拠なく
自由を求めていらだち
世界をきりきり舞いさせるだけ

だが、師は
すべての苦しみの根を断ち切る

愚か者はへを探そうとするため
それを見いだせずにいる
だが、師はつねに平和だ

なぜなら
ものごとをあるがままに
知っているから

世界に注意をはらっていたら
どうして自分自身を見ることができよう?

師は
あれやこれによって
心を乱されない
彼は自分自身を見る
不変の真我をー

愚か者は心を制御しようと必死だ
いったいどうしてそれが可能だろう?

賢く、真我を愛する人に
それは自然に起こるのだ

ある人は存在を信じ
またある人は
『何も存在しない』と言う

そのどちらも信じない人は稀だ
彼は混乱することがない

愚か者は
真我が純粋で分割不可能だと
知っているかもしれない
だが、愚かさゆえ
けっしてそれを見いだせない
彼は一生悩み続ける

自由を求める人の心は
支えもなく
つまずく

だが、
すでに自由となった人の心は
自らの足で立ち
愛著(あいじゃく)に
溺れることがない

感情は虎(トラ)だ

臆病な人は虎を見ると
一目散に近くの洞窟へと逃げ出し
集中や瞑想を修練する

だが、
無欲の人はライオンだ

でくわしたとたんに逃げ出すのは
感覚のほう
まるで像のように
こっそりと走り去る
逃げきれなかったときは
奴隷のように彼に仕えるのだ

疑いを持たず
真我とひとつになった人の心は
もはや自由を求めない

彼は、見、聞き、触れ、
嗅ぎ、味わいながら
この世で幸せに暮らす

ただ真理を聞いただけで
彼の心は無限に開かれる
その智慧は純粋そのもの

彼は努力や静寂を気にかけない
彼は自分が無関心でいることにさえ
無関心だ

師は子どものようだ

良いことも悪いことも
何であれ
起こるにまかせてふるまう

自分の足で立つことで
人は幸福を見いだす

自分の足で立つことで
人は自由を見いだす

自分の足で立つことで
彼は世界を超える

自分の足で立つことで
彼は究極にたどりたく

真我を悟るとき
人は行為者でも
それを楽しむ者でもない

彼の心のさざ波は静まったのだ

師の道は束縛がなく
はかりごともない

彼は輝く

だが、愚か者に平和はない
その心は欲望で渦巻いている

師は心から解放された
彼の心は自由だ
この自由の中で彼は遊び
素晴らしいときを過ごす

ときには
山奥の洞窟に隠れて暮らす

王様であれ女性であれ
あるいは
親愛なる人と出会っても

師は何も欲しない

神や聖地や
聖典に精通した人を讃えたとしても
彼の心には何の願望もない
まったくといってないのだ!

彼は心乱されない

たとえ召使が彼を見下したとしても
あるいは妻や息子や孫が
彼をあざ笑ったとしても
たとえ家族全員が彼を馬鹿にしたとしても
動じない

彼にとって
苦痛は苦痛ではなく
快楽は快楽ではない

ただ、彼のような人だけが
その崇高な精神を知っている
彼には姿かたちがない

彼の姿は「空」なのだ

彼は不変で純粋だ
彼には人を世間に縛りつける
義務という感覚がない

師は義務を果たしながらも
けっして煩わされない

愚か者は務めを怠りながらも
心乱され、落ち着かない
師は為すべきことを
完全な平静さをもって行う

坐るとき、彼は幸せだ
話し、食べるとき、彼は幸せだ
眠るときも幸せだ
来るときも去るときも、幸せだ

彼は自己の本性を知っている

だから普通の人のように
いらだつこともなく
なすべきことを成し遂げる

広大な湖の水面のように
穏やかに輝いている
彼の悲しみは終わったのだ

愚か者の心は
静かにしていても忙しい
師は忙しくしていても
静寂の実りを得る

愚か者はしばしば
所有物を放棄したりする
師はもはや
身体に執着しない

いったいどうして
彼が魅惑や嫌悪を
感じるというのだろう?

愚か者の意識は
考えることや考えないようにすることで
いつも狭く限られている

内なる生を生きる人の意識は
たとえ忙しく考えているように見えても
意識そのものを超えている

師は子どものようだ
その行為には
何の動機もない

彼は純粋だ
何をしようとも
超然と見守っている

彼は祝福を受けたのだ
真我の本性を理解し
もはや心は渇望しない

何を見ようと、聞こうと
嗅ごうと、触れようと、味わおうと
どんな状況でも彼は変わらない

師は大空のよう
けっして変わることがない

世界やその反映が
彼にとって
何の意味があるというのか?

探求や探求の終焉
それが彼にとって何だというのだ
彼はいつも変わらない

勝利は彼のもの
彼は世界を征服したのだ

彼は本来、無限なるもの
自己の完全なる本質そのもの

これ以上何を言うことがあろう?

彼は真理を知り
もはや快楽も解脱も望まない
いつであれ、どこであれ
彼は愛著から自由なのだ

心とともに現れる
二元性の世界を
彼は棄て去った

それはただの名前でしかない

彼は純粋なる智慧だ
為すべきことはもはやない
純粋な人は
何も存在しないことを知っている

それはみな幻影のしわざ

彼は
目には見えないものを見ている
その本性は平和だ

彼は世界という現れを見ない
規則や無執着
放棄や自己制御

それが彼にとって何だというのだろう?
彼の姿は純粋な輝く光なのだ

彼は世界を見ない
喜びや悲しみ
束縛や解脱

それが彼にとって何だというのだろう?
彼は限りなく輝いている

理解が起こる前は
世界という幻影が
支配している

だが、師は
愛著から自由だ
彼には「私」も
「私のもの」もない

そして彼は輝く

彼は真我が苦しむことも
死ぬこともないと知っている
だから
知識や世界のことを気にかけない

「私は身体だ」や
「身体は私のものだ」
という感覚ももたない

愚か者は
精神集中や霊的修練を
あきらめるやいなや
空想や欲望のとりこになる

真理を耳にしたあとでさえ
愚か者は愚かな考えにしがみつく
彼は必死になって
平静と落ち着きを
保とうとする
だが、彼の内面は
欲望で渦巻いている

真理が理解されたとき
行為(カルマ)は消え去る

他の者たちの目には
師は行為をしているように映る
だが、実際彼は
話しているわけでも
何かをしているわけでもない

彼には恐れがない
彼は常に変わらない
彼には何も失うものがない

彼にとって
暗闇はなく光もない
まったく何も存在しないのだ

彼には
自分自身という存在がない
(出産後授乳期の母親はこの状態だと思う)
彼の本性を描写することはできない
 
忍耐や識別や勇気
それが彼にとって何だというのだろう?

師の目には
何も存在しない

天国もなければ
地獄もない
解脱などというものも
ありはしないのだ

これ以上何が言えよう

彼は何も得ることを期待しない
何も失うことを恐れない
彼の心は落ち着き
甘露の雨を浴びている

彼は欲望から自由で
心の平和な人を褒めることもなく
心の邪悪な人を責めることもない

喜びにも悲しみにも
変わらず幸せだ
何も為すべきことはないと
知っているのだ

彼は世界を憎まない
真我を求めない
彼は喜びや悲しみから
解放された

彼は生きてはいない
そして死んでもいない
彼には家族への執着がない

欲望や感覚から解き放たれ
身体のことを心配しない

師は何も期待せず
ただ輝く
何が起ころうと
彼はいつも幸せだ

彼は風の向くままにさまよう

どこにいようと
日が暮れたときいるところが
彼の眠る場所だ

身体が生きようと死のうと
かまいはしない
彼は自己の存在の中に確立し
生と死の輪廻を超えたのだ

彼は喜びに満ちている

何ごとにも
執着せず
所有せず
自立している

彼の疑問は晴れた

彼はひとつのことを別のことに
対立させることなく
思うがままに生きる

師は輝く

彼はけっして
「私のもの」とは言わない
黄金も石も土も———
彼にとってはみな同じ

怠惰に浸ることも
活動に夢中になることもない
彼は心のくびきを
断ち切ったのだ

彼に並ぶ者がどこにいよう

何も気にかけず
幸福で自由な人
その心には
欲望のかけらさえない

ただ無欲の人だけが
見ることなしに見
話すことなしに話し
知ることなしに知る

彼の目には
善と悪の違いは溶け去った

王様であろうと
乞食であろうと
無欲の人だけが輝くのだ

彼にはまったく邪心がない
彼は道を見いだしたのだ
彼は純真そのもの

自制することも
自由奔放にすることも
気にかけない

真理を探し求めることにさえ
まったく関心がない
彼は無欲で
真我の内に幸せに安らぐ

悲しみは終わりを告げた
彼が何を感じているのか誰が知ろう?

たとえぐっすり眠っているときでさえ
彼は眠っていない
たとえ夢を見ているときでさえ
彼は夢を見ていない
たとえ目覚めているときでさえ
彼は目覚めていない

何であれ起こるままにまかせ
彼は幸せだ
彼は考えることなしに考え
感じることなしに感じる

彼は聡明だが
心をもたない
彼には人格があるが
自分という考えがない

彼は幸せではなく
不幸せでもない
冷淡ではなく
とらわれてもいない
自由ではなく
自由を求めてもいない

彼はこれではなく
あれでもない

混乱のさなかでも
彼は乱されない
瞑想のさなかでも
瞑想してはいない

愚かしいが
愚かではない
すべてを知っていながら
何も知らない

彼はつねに
内なる生を生きている
彼はどこにいても同じだ

行為や義務は
彼には何の意味ももたない

無欲ゆえに
為してきたことや
為しえなかったことを
気にかけることがない

非難が彼を当惑させることはなく
賞賛が彼を有頂天にさせることもない
人生を楽しむことも
死を恐れることもない

彼の心は静かだ

森林に孤独を求めることも
群衆から逃げ出すこともない
いつであれ、どこであれ
彼は一なるものとしてとどまる 

Ashtavakra Gita, Chapter 18
アシュターヴァクラ・ギーター「師」

 

 

悟ったと主張したり、
悟りについて特定の立場に立ったりする人たちは、
悟りの逆説的性質を認識しておらず、
自分が達成したと思っている状態を
自分のものだと思い込んでいる。
結果的に、そうした人たちは
自分特有の信念体系に基づいた
個人主義的な概念に囚われたままになっている。

スピリチュアル・ティーチャー
スピリチュアル・マスター
悟りを得たマスター

彼らは生徒や弟子になりたい人たちを
必然的に惹きつける。
二元性に根ざしたままの彼らの教えは、
「教える側」と
教えに従うことを選択する人たちとの間にある
分裂を不可避的に助長する。
従う人たちが増えるにつれ、
マスターの独占的役割を強化する必要が高まる。

役割を身に付けると、徴候として、
「人間的弱点」を認めない、あるいは
その解析を隠そうとするといったことが起こる。
同時に「マスター」と信者たちとの間に
身分の相違が生まれる。

マスターの特別さが効力を増していき、
信者からの需要が増えるにつれ、
教えは例外なく曖昧で
複雑なものになっていく。
教えの曖昧さが高まると
分裂は拡大し、
信者の多くはたいてい自分を見失い、
従順になる。
結果起こり得るのは、
無条件の追従、幻滅、
あるいは目覚めと離脱。

この種の影響力は、
誰もが本来持っている能力についての
実体のない疑念と無力感を
集合的無意識のなかに根づかせ、
維持してきた。
その能力とは、
呼吸と同じように自然で
シンプルで
いつでも手に入るものを認識し
許容する力。

悟りを十分に理解し抱擁した人は、
一切何も売るものを持たない。
そうした人たちが
このメッセージを分かち合う場合、
自分、あるいは自分の分かち合う内容を
装飾する必要がない。
彼らには、
教え手になりたいといった関心もない。
独占は排除を引き起こし
自由は愛を通じて分かち合われる。

すべては
無があらゆるものとしてある。
獲得すべきことなど何もない。


進化そのものの背後にある基本的な衝動は奉仕。
転生そのものが、
愛の法則に沿って奉仕する魂の衝動の結果です。
奉仕を通して魂の目的は遂行される。
魂の特性は奉仕すること。
魂は利他的な奉仕だけを求めます。


Oshoは、
私がいなくなったら、
私のサニヤシンに気をつけろと言った。
肉体の中で新しいマスターを探せと言った。

今、人々はOshoismという新しい罠にかかっている…
彼らはOshoを自分のブランドとして扱っている。
彼らがどのように行動しているのか見れば分かる。
彼らは再び羊の群れとなった。
そこにAloneness はない。

本当にOshoの言葉を理解するまで、
Oshoサニヤスというペルソナを纏い、
羊の群れで戯れたい。
完全に理解した人は、
Oshoの考えが自身のなかにぜんぶ入ってしまう。
卒業したら、
本も言葉の引用も必要なくなる。
なぜに他者に引用する必要があるのか。

利己か利他か
エゴか慈悲か

私は、真のスピリチュアリティにおいては、
何も持たないことを学びました。
偽物を手放す準備ができている人は少ない。

 

Radha Chihiro
テキストのコピーはできません。